翻訳者大西央士の作品紹介 |
||||||
自己紹介 |
||||||
ホームページ | 名前 (大西央士) は「おおにし・ひろし」と読みます。 1955年 (昭和30年)、香川県生まれ。現在も出生地 (右写真: 遠山峻征氏撮影) 在住。 高度経済成長時代の申し子、テレビ第1世代です。 わが家にテレビがはいる前には、懐中電灯をもった祖母に手を引かれて田圃のなかの暗い夜道を歩き、すでにテレビがあった近所の親類の家まで太田博之さん扮するさぶたん=i⇒ちょっとひとこと)が「時間よー、とまれっ!」と言うのを見に行っていたものです(お若い世代のかたには、わかりにくい話ですみません。おわかりにならなければ、ま、おとうさまかおかあさまにでもおききになってください)。 実は、翻訳者になる素地はこの時期にできていたのではないかと思います。 いまのお若いかたにはおわかりいただけないかもしれませんが、わたしたちテレビ第1世代は、「体は日本、頭はアメリカ育ち」のようなところがありました。まだ日本のテレビ局にあまり番組制作能力がなかったので、夜のゴールデンアワーもアメリカのテレビ番組のオンパレードだったのです。おそらく、同世代のかたはなつかしいでしょうから、ここでひとつ、わたしが子どものころに見ていたアメリカのテレビ番組を列挙してみましょう。
中学校にはいっても新たに開局した地元のテレビ局が昼間に洋画劇場をやっていたので、よく洋画を見ました。なかでも、ジーン・ケリーの『雨に唄えば』、ロバート・レッドフォードの『裸足で散歩』『雨のニューオリンズ』、リチャード・ウィドマークやコニー・フランシスの主演作品の数々、それに、少し変わったところでは『ファーティマの奇跡』といった映画も印象に残っています。 中学時代は野球部にはいってそれなりに練習にも出ていっていたはずなので(⇒ちょっとひとこと)、どうやってこの昼間の洋画劇場を見ていたのか、いまとなっては不思議なのですが、ま、とにかくこの時期にはよくテレビで映画を見ました。 それに、このころはわれわれ田舎の子どもたちの間にもようやくロックというものがひろがってきた時期にあたっていて、わたしは、これまたテレビ番組ですが、深夜にやっていた『ナウ・エクスプロージョン』という番組でクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの曲を聴いたのをよくおぼえています。 ザ・フーとジミ・ヘンドリックスが暴れまわったモントルー・ポップ・フェスティバルの映像や、ラヴィ・シャンカールのシタール、エマーソン・レイク・アンド・パーマーのエレクトーンの演奏シーンを見たのも、このころだったと思います。 ま、こういう人間ですから、その後に進んだのは……と思いきや、はいった大学はなんと理学部の物理系でした。まだ「男は理科系」という妙な風潮があった時代ですから、その風潮に流されたといえばいえるのかもしれません。 だから、大学では悩みましたね。正直な胸の内には「したい」なんて気持ちのさらさらない物理を「しなければならない」と思って、まだ教養課程のうちから海洋物理学教室に出入りさせてもらったりしていましたが、やはりむりしたところで化けの皮はいつかははがれるもの。 結局、大学には5年間いましたが、その間にやったことといえば、園芸部というサークルに所属して、その部室に通ったことと、夜になると毎日のように仙台市の木町通りというところで児玉トシさんというおばさんがやっていた『小玉』というおでん屋さんに繰り出したことと、アルバイトに精を出したことと、自分でもなぜかよくわかりませんが、せっせと大学の図書館に通ってイギリスのワット・タイラーの反乱の前後の歴史を調べたことくらいでしょうか。 いつまでもこんなことをしていちゃいかん、と思ったときに見つかったのが、翻訳という仕事で、よし、これで食えるかどうかわかんないけど、いっちょうやってみっか、と思い立つと、大学をやめて東京へ出て、日本翻訳専門学院という学校にはいり、山下諭一さんというわれらが偉大な翻訳家兼編集者兼文化人類学者兼ポルノ小説家のお師匠さんの弟子にしてもらいました。 人間誰しも、ほんとうに好きなことをはじめれば腰がすわるものです。 食いつなぎのための仕事こそ、最初の3年間に8回も変わるなどしてふらふらしていましたが、基本的にはずっと翻訳修行を続けてきて、苦節16年目にしてようやく出せたのが、このウェブサイトで紹介している『危険な報酬』と『名犬ノップ』です。 まあ、いずれの作品もまだまだ名訳というわけにはいきませんが、わたし自身気に入って訳せたいい作品ばかりです。へたな訳に惑わされず、その作品のよさを味わっていただければ、うれしく思います。
|
|||||
|