東西落語特選
転失気
知らないことを知らないと云えなくて、知っているフリをする。よくあることですな。知ったかぶり、というヤツで。 | |
まぁ、まったく何も知らない人、というのはあまり知ったかぶりはしません。そういう方は知らないのが当たり前になってますので、「しらなーい」「なにぃ、それぇ」なんて、ごく気楽におっしゃいます。一方で、本当に物事を深く知っていらっしゃる教養人、なんてお人は、これまた知らないことは知らない、とおっしゃいますな。今さら一つや二つ、モノを知らなくったって、誰もその人をバカにしたりなどできませんからな。まぁ、自信の現われということでしょうか。 | |
知ったかぶりをする、というのは、われわれ同様という、このちょうど中間にある人間ですな。半端にモノを知っている。実際よりも余計にものを知っているように見られたい。そういう気持ちが知ったかぶりをさせるのでしょうな。われわれの中にもよくあります。 | |
●やかん、てなぁ、あれはなんで「やかん」てぇ名前ンなったんだ? | |
◯あぁ、あれは、昔は湯沸かしってぇ名だったんだ。それが、戦国時代に、戦場で矢がヒューッと飛んできて、湯沸かしに当たってカーンと鳴った。それで「矢カン」てぇ名になったんだ | |
なんて、平気で云ってます。ま、そういうようなお人のお噂で... | |
あるお寺の和尚さんが、どうもここ二、三日からだの具合が悪い。そこでお医者様に往診をお願いしまして、診てもらいました。先生、脈を取ったり、ベロを出させたり、目ン玉の色を見たり、腹を押したり揉んだりしておりましたが、フと首をかしげて、 | |
3 | これは、ちと、お腹が張っておるようですな。いかがですかな、「てんしき」は、ございますかな? |
この和尚さんというお人が、まことに負け惜しみの強い人で、「知らない」「分からない」ということが云えません。 | |
1 | あぁ? え〜...「てんしき」でございますか...えーと... |
3 | ございませんかな? |
1 | え? えぇ...ご、ございません |
と返事をしてしまった。 | |
3 | さようですか...わかりました。後ほど、お薬をこしらえておきますので、小僧さんに取りに来てもらって下さい。では、わたくしはこれで... |
と、先生は帰ってしまった。さて、後になって和尚、気になってしょうがない。 | |
1 | はて...「てんしき」...はて、なんだろう...「てんしき」...経文の中にも出てこぬし...これは弱った。先生は「てんしき」が無いものと思って見立てをして下さったが、もし、「てんしき」があったら...見立て違いで命に関わるようなことに...う〜ン... そうじゃ。小僧の珍念。あやつ、子供の癖に妙にわけ知りで、なかなか侮れぬところがある。よし、あやつめに聞いてみるか... これ、珍念! 珍念はおりますか? |
2 | へーーーーーーーーーーぃ へい、和尚様、お呼びでございますか? |
1 | あぁ、珍念か。すまないが、てんしきを出しておくれ |
2 | へ? |
1 | てんしきを出しなさい、と云っておる |
2 | へ? |
1 | 何を聞いておる? てんしきを出しなさい |
2 | て...てん...なんですか? |
1 | てんしきだ |
2 | てん...しき? てんしきって、和尚様、なんですか? |
1 | てんしきは...てんしきじゃ |
2 | どんなものですか? |
1 | お前は、てんしきを忘れたのか? お前は、歳はいくつになりました? 十三!? 十三にもなって、なぜてんしきを忘れる! そんなことではいかん。修行がままならぬぞ! |
2 | へへぇっ! 申し訳ございません...で、和尚様、てんしきってなんですか? |
1 | わたしは教えてやらん。忘れたら和尚に聞けば済む、と、心に油断がある。お向かいの雑貨屋か花屋へ行って、「てんしきはございますか」と尋ねて来なさい |
2 | へぃ、で、あったらどうしますか? |
1 | 借りてきなさい |
2 | へぃ...では、行って参ります... あーぁ...てんしきィ? そんなもの、聞いたこともないよ。なんなんだろうなぁ、てんしき...うちの和尚、時々、ああいう訳の分からないこと、言い出すんだよ...あぁ、雑貨屋さんだ... こんにちわ |
4 | へぃ、いらっしゃい。あぁ、珍念さん、いらっしゃい。今日は? お買い物かい? 用があったら声を掛けておくれ。こっちから出かけていくから |
2 | いえ、今日はそうじゃないんです。あの、貸してもらいたいものがあって。お店に「てんしき」ってありますか? |
4 | はいはい、かしこまりました、ちょっと待って...珍念さん、いま、なんて云った? て、てんしきィ? あぁ、てんしきね...おーい、番頭さん、珍念さんにてんしき出してあげなさい |
5 | えっ? てんしきでございますか? あぁ、珍念さんが...えぇ、少々お待ち下さい。えぇ、おかみさん、お寺の珍念さんがてんしきを借りに来てますが... |
6 | ああ、そうかい。てんしきをね...てんしき、てん...てんしきィ? ハイハイ、ちょっとお待ちなさいな...ちょぃと、ちょぃとお前さん、珍念さんがてんしきを借りに来てるよ |
4 | おぃ、おれんとこに戻って来たのかい? 弱ったねぇ...いやぁ、珍念さん、申し訳ない。ついこの間まであったんだけどねぇ、こないだネズミに食われちまってね、残ったひとつもつい今朝方、売り切れちまって...こんど入るのは月末ごろになるかなぁ。入りましたらすぐにお寺に知らせますよ... |
3 | あぁ、そうですか...へぃ、へぃ、じゃ、また... てんしき、ネズミが食べちまって...残りも売り切れ...月末には入る...なんだろうなぁ...ついでだから、花屋にも聞いてみよう こんにちわ! |
7 | あぁ、珍念さん、いらっしゃい |
2 | あぁ、旦那さん、すいませんけど、てんしき、貸して下さい |
7 | はい、いらっしゃい...おーぃ、ばあさんや。珍念さんがてんしき借りに来たよ。すまないが、出して上げて...早いところして上げておくれよ。お寺さんは忙しいんだから...な、なんだよ。なにをウロウロと...なにぃ? てんしきがわからねぇ? 化けるほど人間やってて、てんしきが分からないとは、情けねぇ...え? おれか? そんなものぁ、知らねぇ...こりゃ弱ったなぁ... すまないねぇ、珍念さん。せっかくあったてんしきを、今朝、味噌汁の実にして食べちまってねぇ...おぃ、ばあさん、あの、床の間の飾りモノに置いといた大きいのはどうした? え? 珍念さん、それも食っちまったらしい。いゃぁ、うちのばあさんも、若い頃は色気もあったんだけどねぇ、歳を取ると食い気一方で、何でも食べちまうんだ。すまないねぇ。そういうわけだから、和尚さんによろしく... |
2 | はぁ、じゃ、さよなら... てんしき...いったいなんだろう... 和尚様、ただいま帰りました |
1 | どうじゃ、てんしきはあったか? |
2 | へぃ、それが、あいにく、どこにもありませんでした |
1 | 雑貨屋さんへは行ったか? |
2 | へぃ、全部売り切れたそうです。ひとつはネズミに取られて、最後の一個は今朝売れたばかりだそうで |
1 | 売り切れ...そうだよ。あれはよく売れるから、なかなか手に入らない。で、花屋さんは? |
2 | へぃ、今朝、お味噌汁の実にして食べてしまったそうです |
1 | 味噌汁の実ィ? あ、あぁ、今が旬だからなぁ |
2 | 大きいのを床の間の飾りにしてたそうです |
1 | 床の間のォ? ... |
2 | あの、和尚様、てんしき...って、何ですか? |
1 | わしの口から聞くと、お前はまた忘れてしまう。そうだ、そろそろ薬ができている時分だ。珍念、お前、今から、先生のお宅に薬を取りに行きなさい。その時に、先生にな、自分のハラから出たこととして、和尚に云われたなどということは云わずに、「先生、てんしきってなんですか」と聞いてみなさい。教わったら、帰ってきてわしに話してみなさい。お前がちゃんと覚えているか、わしが聞いてやろう |
2 | へぃ、行って参ります えぇ、お頼みもうします! お頼みもうします! |
3 | どーれ...おや、これはお寺の小坊主さんか。あぁ、和尚さんのお薬だね。できてますよ。さあ、こっちへお上がり...さあ、まぁ、お茶でも一杯どうだい? え? 薬? あぁ、薬はここに包んでありますよ。飲み方やなんかは中に効能書を入れてあるから、和尚さんに読んでもらっておくれ |
2 | へぃ、ありがとうございます。お茶、ご馳走様でした...あ、あの、先生、ちょっとものを教えていただきたいんで... |
3 | うむ、なんだい? |
2 | 先生、さっき和尚様に「てんしきがありますか」とおたずねでございました |
3 | うむ |
2 | わたくし、「てんしき」というものがどういうものか、一向に存じ上げません。「てんしき」ってなんですか? |
3 | ほう、転失気...いやいや、知らぬことを人に聞いて学ぼうとする心がけは、たいへん立派なことじゃ。あれはな、「おなら」のことだ |
2 | へぇ...「おなら」...っていうと、どんな食べ物で? |
3 | いや、食べ物じゃない、「おなら」だ |
2 | おなら? あの、お尻から出る、「へ」ですか? |
3 | そうじゃ |
2 | へぇ、「おなら」? 「おなら」が「てんしき」でございますか? へぇ? |
3 | そう、へぇへぇ云わんでもよい |
2 | でも、わたくし、和尚様に「てんしきを借りにいってこい」と云われて、お向かいの雑貨屋さんと花屋さんとを回って、どこにも無いって... |
3 | そんなバカな。それは何かの聞き違いじゃ。まあ、知らぬのも無理はない。今はこのようなことは云わんが、昔の『傷寒論』という本の中に出てくる。「気を転め失う」とある。これすなわち「転失気」だ |
2 | おならァ? ほんとにおならなんですか? |
3 | 疑うなら、その本を見せようか? ...ほら、これだ |
2 | あぁ、これがそうですか...へい、拝見します...あぁ、だめだ。漢字ばっかりでぜんぜん読めない... |
3 | そういうわけだ。分かったかな? |
2 | へい...ありがとうございました...さようなら...えっ? 薬? あぁ、忘れてた。へぃ、それじゃ失礼いたします... てんしきはおなら? だって、雑貨屋の旦那、売り切れたって、花屋の親父さん、味噌汁に入れて食ったって...床の間の置物ォ? ...だいいち、和尚様、確かにてんしきを借りてこいって... あっ、分かった! だァれも知らないんだ! 雑貨屋の旦那も花屋の親父さんも和尚様も、みんな知ったかぶりをしてるだけなんだ! あははは、ははは... でも、先生から聞いた通りを和尚様に云うのは悔しいなぁ。「和尚様、てんしきはおならでした」「その通りじゃ! もう忘れるでないぞ!!」なんて、また説教されるのがオチだよ。なんか云いようがありそうなもんだよ...なんて云ってやろうかなぁ... なんて云えば...そうだ。和尚様、お酒が好きだから... えー、和尚様、行って参りました |
1 | ああ、ご苦労さん。どうでした。てんしきのことを聞いて来たかい? |
2 | へぃ、聞いて参りました |
1 | で、先生はどのようにおっしゃったな? |
2 | へい...えぇーっと...えぇ... |
1 | なんとおっしゃった? |
2 | へぃ、あ、あの...さかずきのことだと... |
1 | さかずき? 杯は酒を呑む器。呑む酒器、呑酒器(てんしゅき)、うむ! その通りじゃ! 二度と忘れるでないぞ! |
2 | そら、きた |
1 | よいか。寺方で、お客様が来たときに、「杯を出しなさい」では具合が悪い。これからは「呑酒器を出しなさい」と云います |
2 | て、てんしきをでございますかァ? |
1 | うむ。三つ組みのやつをな |
2 | 三つ組み!? 三つ組みのてんしきなら、ブー、ブー、ブーッ! |
1 | なんじゃ、それは? |
さて、翌日ともなりますと、お薬の効き目でございますか、たいそう具合もよくなりました。その日の午後、前日のお医者様がまた往診においでで... | |
3 | ご住職、今日はだいぶ具合がよろしいようで、けっこうでございますな |
1 | これも先生のお見立てのおかげと、喜んでおります...ところで、昨日、先生が「呑酒器はおありか」とお尋ねでございましたなぁ |
3 | はぁ、はぁ |
1 | その節、無いように申しましたが、よくよく考えますと、へへっ、ございました |
3 | あぁ、そうですか。それは結構なことですな |
1 | わたくし、呑酒器に目がございませんでな |
3 | はぁ、さようで? |
1 | 寺方で、朝っぱらから呑酒器をやるというわけにも参りませんで... |
3 | いゃ、そのような遠慮はなさらず、いつでもやってください |
1 | 先生もお好みで? |
3 | いや、別に好きというわけではございませんが、ま、時に催すこともございますな |
1 | 催す...催しますか。なるほど。いやぁ、奥様もお好きなんでしょうなぁ |
3 | いゃぁ、好き...ということはございますまいが、まぁ、陰でこっそりやっているものと思いますな |
1 | なにをおっしゃいます...夕食のときなどは、ご夫婦差し向かいで、やったり取ったり... |
3 | 夫婦でやったりとったり? |
1 | なんでしたら、ひとつ、ご覧にいれましょうか? |
3 | いや、わざわざ見せていただくほどのことでも... |
1 | いやいや、ご遠慮なさらず。ぜひともご覧に入れたいもので...これ、珍念や! 何をニヤニヤしておる。呑酒器をもっておいで。例の、三つ組みの...これ、お客様が見えておるのに、何をゲラゲラと笑って...放り出すやつがあるか! 壊れ物が入っておる! キズでも入ったらどうする! いや、失礼をいたしました。拙僧のしつけが行き届きませぬゆえ。えぇ、この箱に入っております。当寺の宝物でございます |
3 | 宝物!? この...桐の箱に、でございますか? あけますと、臭いでもしますかな |
1 | いや、これは洗ってからよく拭いて、真綿でくるんでおりますので、臭いなどはいたしません |
3 | 洗って? 真綿でくるんで? いゃぁ、わたくし、長いこと医者をやっておりまして、転失気の臭いをかいだ、音を聞いたということは多々ございますが、転失気の標本を見るなどは初めてでございます。後学のため、ぜひ拝見したいと思います...ご住職...これは、みごとな杯で...すが、これはいったいどういう訳で? |
1 | どういう、とおっしゃると...これは拙僧の秘蔵の呑酒器で... |
3 | はぁ? いやぁ、われわれの方では『傷寒論』にございます「気を転め失う」と書き、放屁などのことを転失気と申しますが、寺方では杯のことをてんしきとおっしゃいますか? |
1 | はぁ? ホウヒーッ!? 屁でございますか? これ! ち、珍.... ググゥッ... さ、さよう、寺方では杯を呑酒器ともうします! |
3 | どういう訳で? |
1 | この杯をかさねますと、ブーブー文句を云うやつがいる |
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知ったかぶりの咄は『千早振る』『鶴』などいくつかありますが、この『転失気』がいちばんできがよいように思いますねぇ。江戸っ子は知ったかぶりするヤツがたいそう嫌いだったものと見えまして、落語の中では、例えば『酢豆腐』の伊勢屋の若旦那のように、ケチョンケチョンにされてます。 初出:17.Mar 98 |
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