東西落語特選
紅羅坊名丸
昔は十人寄りましたらそのうちの七、八人は字が読めない、書けないなんてぇものがおりまして、お職人衆にはことに多かったそうですな。どうしてかってぇますと、職人は腕さえ確かならいいんだ、読み書きなんてぇものは必要ねえもんだ。てんで、なまじ読んだり書いたりすると仲間の受けが悪かったそうですな。 | |
◯なんだとよ、あのとめ公の野郎、字を書いたり読んだりするそうだぜ | |
●あの野郎が? ぃやな野郎だなぁ...それであいつはあんなに仕事がマズイんだな | |
◯そればかりじゃねぇ、そろばんも弾くとよぉ | |
●そろばんも!? あの野郎、しみったれだから。 そんなやつと付き合うな! | |
なんて、いい面の皮ですな。読み書きをして算盤を弾くばかりに自分の仕事をくさされたりしまして。それで、よけい学問の方に重きを置きません。そんな風ですからどうも理屈てぇものがわからない。もうややもすると暴力沙汰になるなんてことも起きてまいります。 | |
どうしようもないやつになって参りますと、自分の名前もハッキリ知らないなんてやつが出て参りまして | |
■ちょっとものを伺います。このご近所だと聞いて参ったんでございますが、ご職業が大工さんで「山田喜三郎」さんとおっしゃる方をご存知ありませんかな | |
●なにぃ、やまだきさぶろうだぁ? 聞いたことのねぇ名前だなぁ。いや、大工はいるよ、この長屋に。おれんちの隣も大工なんだ。ちょっと待ちねぇ、聞いてみてやるよ。おーぃ、きさっぺ! ...おめぇとおんなじ商売なんだ、でぇくなんだがなぁ、「やまだきさぶろう」って野郎を知らねぇか、ってこの人が聞いてんだが、おめぇ、知らねぇか? | |
◯なにぃ? やまだきさぶろうだ? へっへっへ、殿様みてぇな名前じゃねぇか。やまだきさぶろうなんて、たいそうな... あれ...? あ、それ、おれだ。 | |
●てやんでぇ、おめぇなんざぁガキの時分からずっときさっぺぇじゃねぇか。でぇいちおめぇは、やまだって顔じゃねぇや。おめぇなんぞどこへ出したって「じゃまだ」ってぇツラだ! | |
◯いや、面目ねぇ...おめぇにはわりぃけどよ、まちげぇねえや。今の今まで忘れてたけどよ、おれぁやまだきさぶろうだ。というのが、死んだ親父が「おめぇの名前はやまだきさぶろうだ」って言ってたのをほのかに憶えてる | |
●おいおい、ホントかよ! へへっ、こいつだそうで... | |
なんて、これがウソのような本当の話だそうでございまして、こんなのがそう珍しく無かったんだそうで。この話が友達の間に広まりますと大変ですな。 | |
◎おい、聞いたか! | |
▲なんでぇ | |
◎でぇくのきさっぺ... | |
▲どうかしたのか? | |
◎あいつの名前、知ってるか? | |
▲そりゃ、おめぇ、きさっぺはきさっぺにちげぇねえだろうが? | |
◎それがそうじゃねぇてぇから、恐ろしいじゃねえか。いいか、よく聞けよ、「きさっぺ」てぇのは浮世を忍ぶ仮の名、まこと本名は「山田喜三郎」てぇんだ | |
▲えぇ? そらぁ、おっかねえ話しだなぁ。あいつがそんなふたつ名を取るような悪党たぁ知らなかったぜ | |
てな具合で、もう酷いもんですが、そういったがさつな輩のおうわさでございます。ここに出て参ります、紅羅坊名丸という先生、この方は、心学という学問を広めた方で、分かりやすい喩え話で、庶民に人の生き方をといた方だそうで・・・ | |
名丸 | これは失礼をいたしました。お使いの方かと思っておりましたが、あなたがご本人の八五郎さんでいらっしゃる。そこではお話ができない、ま、どうぞこちらへお入りください。あたしがお尋ねにあずかる紅羅坊名丸、ふつつかな心学者 !? でございます。ま、どうぞお見知り置きを お手紙は残らず拝見をいたしましたが、このお手紙によると、あなたに母上がおありなさるようで |
八五郎 | よせやい、そんなことが書いてあるのかい? そんな母上なんて上等なシロモノじゃないんだよ、水っ気が抜けてパサパサになっちまってんだ。人様にご覧に入れるようなシロモノじゃねぇや |
名丸 | いや、べつに拝見せんでもよろしい。その母上をあなたが打ち打擲なさるそうですな、殴ったりなさるそうですな。 |
八五郎 | けっ、冗談言っちゃいけねぇよ。あんなババァ殴って何がおもしれぇんでぇ |
名丸 | そうでしょう。これは何かの間違いでしょう。まさか親に手を挙げるような真似はなさらんでしょう |
八五郎 | ああ、おれぁ蹴飛ばすのよ! |
名丸 | 蹴飛ばす? これは呆れたなぁ... 「孝行のしたい時分に親は無し、さればとて墓 に布団も着せられず」と申しますぞ... ご隠居さんのお手紙の文面によりますとそれとなく御意見をしてくれ、ということですが、まぁ、御意見などという生意気な真似はできませんが、相談相手になりましょう |
八五郎 | そうかい、頼むよ。なんだか知らねぇが、でこぼこ大家の言うにはねぇ、おまえさんの言うことの十のうち三つでも憶えてきたらねぇ、ちょいとばかしいい心持ちになれるって言うんでおれぁやってきたってわけなんだ。えぇ? なに習うんだい? 小唄か? 端唄か? 新内か、都都逸か? なんだ? |
名丸 | いやいや、わたしはさようなおしゃべりはしない。心学というものは面白い、おかしいというものではない。が、まぁお話だけはしてみよう。これからわたしが申しますことをしっかりと、耳で以って聞かずに、胆で以って聞いていただきたい |
八五郎 | え? ハラで? ヘソの穴でか? |
名丸 | いやいや、臍の穴で聞けるものではない。耳は取り次ぎの下女・下男。御主人のあなたがしっかりと聞いていただかなくては困る。 お手紙によりますと、あなたはたいそう短気だそうでございますな |
八五郎 | ナニを? タヌキだぁ? |
名丸 | いやいや、短気。けんかがお好きか? |
八五郎 | お好きか、どころの騒ぎじゃねぇや。好きだねぇ、おれぁケンカとなりゃどこでも飛び出すよ。人のケンカだろうがなんだろうが。 自慢じゃねぇが、こちとら職人で江戸っ子で威勢がいいんでぇ! |
名丸 | ほほぅ、しかし、喧嘩というものはどっちみち、得のいく話ではない。喧嘩をすれば必ず損をする |
八五郎 | 冗談言っちゃいけないよ。ケンカすんのに損得考えてケンカしてるようなやつぁいねぇよ。ケンカとなりゃ、 こちとら 命だっていらねぇんでぇ!! |
名丸 | そんな大きな声で...まるであなたとわたしが喧嘩をしているようだ。 bどちらかが折れたら喧嘩は成り立つわけのものではない。だれしも虫の居所の悪い時というのがある。そこをぐっと押さえるのじゃな。 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」「むっとして帰れば門の柳かな」「風の吹く方を後ろに柳かな」 |
八五郎 | よーよーよー、ありがてぇなぁ、おれぁ、そういうの好きだなぁ |
名丸 | ほう、お分かりか? |
八五郎 | いや、さっぱりわからねぇ |
名丸 | 柳の心持ちを言ったものです。柳は決して風に逆らわない。北から風が吹けば南へなびく。南から風が吹けば北へなびく。風の吹くまま、吹かぬまま。 人もそのとおり、柳のように柔らかい心持ちを持てということだな |
八五郎 | へへっ、冗談じゃねぇや。人間が柳みたいに、風が吹くたんびにあっちふらふら、こっちふらふらしてられるけぇ。堀っ端なんぞ歩いててみろ、堀へおっこっちまうじゃねぇか |
名丸 | むむ、どうもお分かりにならない...柳のように素直な心持ちを持てということ... |
八五郎 | へへ、そうは行かねぇんだよ、人間だからさ、ハラも立つし、しゃくにも触るし、ケンカにもなろうじゃねぇか |
名丸 | いや、それがいかん。それを押さえるのが「堪忍」じゃな。 「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍」「堪忍の袋を常に首へ掛け、破れたら縫え、破れたら縫え」 |
八五郎 | うわ〜ぁ、なむあみだぶつ...ははっ、よく合わぁ |
名丸 | 合わしちゃ困る...ご法談と間違えては困る...ではわかりやすい話をしましょうかな これは夏のこと。店の前で、小僧さんが撒き水をしている。その水が通りかかったあなたの着物の裾にかかる。そのときあなた、どうなさる? |
八五郎 | おっ、小僧がおれの着物に水掛けたってのか、そりゃおれぁ黙っちゃいねぇな。その小僧、はったおしちまう! |
名丸 | いや、この小僧さんはまだ小さい... |
八五郎 | 小さかろうがでかかろうが、構わねぇよ。 そうだ、おれぁ小僧なんぞ相手にしちゃいねぇよ。おれぁその家に乗り込むね。おぅ、てめぇとこじゃこんな場違ぇな小僧飼っときゃがるから... |
名丸 | 飼っとく? |
八五郎 | ふざけんなってことだよ! |
名丸 | いやいや、どうも...なんだな、あなたの言いそうなことだな。 ではな、今度は路地のようなところを歩いている。すると強い風が吹いて、屋根から瓦が落ちてあなたの頭にあたる。さすれば、あなた、痛かろう |
八五郎 | 痛かろう? おいおい、しっかりしろよ、てめぇ、瓦がぶつかってんだろ? 痛てぇに決まってんじゃねぇか |
名丸 | で、今度は相手は瓦だ。瓦と喧嘩をするか? 瓦と取っ組み合いをするかな? |
八五郎 | 何を言ってやがんでぇ。どこの町内に瓦と取っ組み合いで相撲取ろうって野郎がいるんでぇ。おれぁ、瓦のかけらをふん捕まえてその家に乗り込むよ。てめえっとこは高慢な面しやがってなぁ、職人の手間惜しみやがっからこういうことになるんでぇ。この頭の傷はどうしてくれるんでぇ、っておれぁ膏薬代ぶんどってやらぁ |
名丸 | ほう、膏薬代を |
八五郎 | あったりめぇよ。 こちとら江戸っ子で職人で威勢がいいんでぇ |
名丸 | ほほぅ、では今度はな、差し渡しが二里も三里もあるという大きな原中に差し掛かる。夏の雨は馬の背を分ける、というな。夕立だ。頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れ。さいぜん、少しばかり掛けられた小僧の水、それで小僧を殴るとおっしゃったが、今度は全身濡れ鼠だ。あなたは江戸っ子でお職人で威勢がいい。さぞ黙ってはいまい |
八五郎 | あったりめぇでぇ、べらぼうめぇ! おれぁ黙っちゃいないよ、おれぁクルッと尻捲くって、トントントントンっと、そこんちの...あぁ... へっ、何を言ってやがんでぇ! |
名丸 | さぁ、今度はどこへ上がる? 誰を相手取って喧嘩をなさるか? 江戸っ子でお職人で威勢がいい。 さぁ、どうなさる? |
八五郎 | どうなさるったって、あれじゃねぇか...冗談言うなってんだ、おれぁクルッと尻を捲くって... 考えやがったな、この貧乏たれが... |
名丸 | さぁ、どこへ怒鳴り込む、誰と喧嘩をする? |
八五郎 | う... |
名丸 | どうする? |
八五郎 | だから、おめぇよぉ... どうも申し訳けねぇ |
名丸 | いや、あやまらなくてもいい... で、どこへ怒鳴り込む? |
八五郎 | しょうがないから、おれぁ駆け出すよ |
名丸 | 駆けてもだめだ。先の先まで雨が降っておる。 |
八五郎 | じゃ、大きな樹の下で雨宿り |
名丸 | 原中で樹など一本も無いのじゃ |
八五郎 | ...そんじゃおれぁ居酒屋にでも飛び込んで、雨が上がるまで一杯やってるよ |
名丸 | そのような原中に居酒屋など無いのじゃ |
八五郎 | ...それじゃしょうがないじゃねぇか...どうしようもねぇじゃねぇか |
名丸 | しょうがない、どうしょうがない? |
八五郎 | どうったって、どうにもなるかい...天から降った雨だと思っておれぁ諦めるよ |
名丸 | ほう、天から降った雨だと思って諦められるか |
八五郎 | られるかったって、他にられようがねぇじゃねぇか |
名丸 | ではもう一つ聞こう。 雨だと思って諦められるなら、さいぜん、小僧が掛けた水、これも雨で濡れたのだと思って諦めてご覧なさい。殴られたら、いや、殴られたのではない、屋根から瓦が落ちて頭に当たったんだ、と諦めてご覧なさい。屋根から瓦が落ちたときも、おのれがここを通ったという身の不運だと諦めてご覧なさい。 何事も大きく考えてみるのだな。 仏説で申しますところの因縁、運命などということばもあるが、われわれ心学ではこれは天がわれわれに与えたところの災難、天が為したところの災いという意味で「天災」などというが、何事も天災だと諦めることはできませんかな。そうすれば人といさかいをするようなことが自然と無くなる。 どうだ、お分かりか? |
八五郎 | ...じゃ、何かい、なんでも腹の立つことがあったら天のせいにしとけ、ってことかい? |
名丸 | まあ、そうだ。人と喧嘩をする、相手を人と思わず、天だと思うのだな。 |
八五郎 | はははは、じゃおまはんとケンカしようと思ったら、天と思っときゃいいんだ。お前さんなんぞ、天と思いやすいツラだよ。まぁるくって上の方がぴかぴか光ってやがる。どう見たって天ヅラだ。 |
名丸 | 天ヅラとは恐れ入ったな、ハッハッハ |
八五郎 | ははは... お前さんの言う通り、ケンカして得したことぁ無いよ。却って損するよ。着物が破れて泥だらけになる、けがぁする、仲直りにいっぱいおごらなきゃなんねぇ事もあるしね。銭の掛かることばかりだけど、しょうがねぇんだよ。弾みだからね。 いるんだよ、おれんちの長屋に、ケンカっ早いのがいっぺぇ。天災なんてことを心得てるやつぁ長屋にひとりもいねぇよ。こんど長屋に揉め事があったときにその天災てことをわーっと振りまいてみてぇと思うんだけど、そら、なんとかいう...柳が風でひっくりけぇるとかいう... |
名丸 | ひっくり返りはしない。「気に入らぬ風もあろうに柳かな」「むっとして帰れば門の柳かな」「風の吹く方を後ろに柳かな」 |
八五郎 | それそれ、それから、ガンニンなんとかが出てくんだろ? |
名丸 | 堪忍だ、それは。「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍」「堪忍の袋を常に首へ掛け、破れたら縫え、破れたら縫え」 |
八五郎 | それだ、それ、今度やってみらぁ...とてもお前さんのように、こう、調子をつけて唄えやしねぇけどよ。せいぜい、そういう具合にやってみやしょう。 き、きにいらぬ〜かぜも〜あろう〜にぃ |
名丸 | そんな妙な節をつけずとも... |
八五郎 | はっはっは、本職みてぇな声が出してぇもんねぇ、それじゃあっしゃこれでけぇります |
名丸 | いやいや、もう少しゆっくりしていかれては...これから道の話など... |
八五郎 | いやぁ、道普請(道路工事)の話なんぞしたって面白くも何ともねぇ |
名丸 | 道普請とは面白いことを...いやいや、こんな話でよければいつでもおいでなさい。話に夢中になって何のお構いもしなかった...お茶も入れんで失礼をいたしました |
八五郎 | いや、いいんだよ。今までのおれなら、茶の一杯も飲ませたっていいだろ! ってんで、ケツ捲くるところだけどね、今度は天災心得たからね、素直にすっと帰っちゃう。まぁ、早い話がさ、あっしがここへ来た身の不運だ。 |
名丸 | いや、これは参りましたなぁ...お手紙をくださったご隠居にどうぞよろしく...どうかなさいましたかな? |
八五郎 | 草履が方っぽ無くなっちゃったぜ |
名丸 | おお、これは格子戸が開いておったによって、犬でも入って咥えていってしまいましたかな |
八五郎 | なーに、犬が咥えたと思うから腹が立たつけどさぁ、天が咥えたと思えばいいやな |
名丸 | ま、天が草履を咥えたりはしないがな、万事その調子でお諦めを。よかったらわたしの草履を履いて行きなされ |
八五郎 | なーに、構わねぇよ。はだしだっていいんだ |
名丸 | 後を閉めて |
八五郎 | おぅ? おれが閉めねぇと思うからハラが立つだろう、天が閉めないと思え! |
名丸 | なんじゃな、それは... |
八五郎 | おう、おっかあ、今けぇった |
女房 | なんだよ、どこ飛び回ってたんだよ、この人は |
八五郎 | この人は、じゃねぇよ。なんか長屋が騒々しいじゃねぇか。何かあったのか? |
女房 | あったのか、どころの騒ぎじゃないよ。裏の熊さんとこで大喧嘩があったんだよ |
八五郎 | なんでぇ、なんだって? |
女房 | ほら、先のかみさんのおみっつぁんとちゃんと別れ話がついてなかったろ、そこへ今の女引っ張り込んだからたまらないよ、おみっつぁんが飛び込んできてさ、なんか言い争ってたと思ったら熊さんとおみっつぁんとで取っ組み合いの大喧嘩さ。女はさっさと逃げちまってさ、長屋の連中総がかりで収めたんだよ... ああ、でもみんな言ってたよ。お前さんがいなくてよかったって。お前さんがいた日にゃ一日かかって怪我人が出る |
八五郎 | 何言ってんでぇ、ばかぁ、ちょっと行ってくらぁ |
女房 | え? どこへ...おやめなさいよ、お前さん、せっかく収まってるんだから。お前さんが行ったらまたケンカがむし返しちまうよ |
八五郎 | 何言ってやがんでぇ。今までの八五郎と訳が違うんでぇ。おれぁ天災を心得てるんだ。てめえら、天災しやがれーって振りまいてくっからよ、黙ってみてろ、こんちきしょう! 熊ッ、いるか! |
熊 | こりゃ悪いのが来ちゃったなぁ...すまねぇ、長屋騒がしちまって... |
八五郎 | おめぇ、ケンカしたってぇじゃねぇか |
熊 | ちょっと虫の居所が悪かったからよぉ |
八五郎 | 生意気なこと言うんじゃねえよ。おめぇなんぞ虫の居所気にする面か? 虫の方で気にしてどっかいっちまう面だ。今日はちょいとおめぇに言って聞かせることがあるからな、よく聞けよ そこではお話が出来ません。どうぞ、ここへお上がりなさい |
熊 | なに言ってやがんだ、てめぇが上がるんだ |
八五郎 | あ、そうか、おれが外にいるんだ...うぉほん、お使いの方かと思ったら、あなたがご本人の八五郎さんでいらっしゃる |
熊 | おれぁ熊次郎だ。八五郎はおめぇじゃねえか |
八五郎 | あ、そうだ...ちょっと最後まで聞けよ、段取りってモノがあるんでぇ...お手紙は残らず拝見をいたしました |
熊 | なんの手紙だよ |
八五郎 | お手紙のご様子では、あなたにお母上がおありのようだ |
熊 | 無いよ |
八五郎 | え? |
熊 | いねぇよ、とっくに死んじまって...おめぇだって知ってるじゃねぇか。弔いんときいっしょに焼き場まで担いでったろう |
八五郎 | あ、そうか...うちにババァいるんだ...あのババァ、おめぇに貸すから、ちょっと蹴飛ばしてみてくれ |
熊 | バカ言うねぇ。人んちのお袋を蹴飛ばせるけぇ |
八五郎 | そうか? じゃしゃぁねぇ。ババァ抜きだ。すぐにケンカの方に取り掛かる |
熊 | おい、よせよ、詰まんねぇこと言うなよ |
八五郎 | これからあたしが申しますことを耳で聞かずに、ヘソの穴で聞きなさい |
熊 | おめぇ、どうかしたのか? |
八五郎 | いいか...こうこうの...こうこうの漬けたい時分にナスは無し...かといってきゅうりも生ではかじられぬ...どうでぇ、よっく聞きやがれ...気に入らぬ...気に入らぬ風もあろうに蛙かな...蛙は柳で柳は柔らけぇ...南から...南から、飛んで来たきた渡り鳥...いや、南から、風が吹けばあったけぇと...北から風が吹くってぇと寒いから、どうしたって一杯やりたくならぁな...だから人間は神主だ、神主の、奈良の神主、駿河の神主、中に天神寝てござる、あーこりゃこりゃ |
熊 | なんなんだ、そりゃ |
八五郎 | 感じねぇのか、この話を聞いて、この野郎...神主の袋は常にズダ袋、破れたら縫え、破れたら縫え、どうだ、お分かりか? |
熊 | いや、わからねぇ |
八五郎 | では分かりやすい話をいたしましょう |
熊 | そうしてくれ |
八五郎 | あなたが路地を歩くだろう、すると屋根から小僧が落っこちる |
熊 | あぶねぇなぁ |
八五郎 | あぶなくねぇよ、大きな原っぱにでるでしょう、夏の雨は馬が降る... |
熊 | そりゃ「馬の背を分ける夕立」ってんじゃ |
八五郎 | お、そ、それ、夕立、夕立だ。そこで小僧が水を撒く |
熊 | そりゃ間抜けな小僧だな |
八五郎 | いちいちうるせぇなぁ、大体てめえだってそうなんだよ、元のかみさんが暴れ込んできたと思うところが素人だ、そう思っちゃいけねぇ。いいか、天が暴れ込んで来たと思ってみやがれ。これすなわち天災だ。どうだ、まいりやがったか! |
熊 | 天災? いや、そうじゃねぇ。うちは先妻でもめたんだ。 |
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江戸時代、享保年間に儒学に神仏の教えを取り入れ、平易な表現と通俗的な比喩とで実践道徳を説いたのが心学と呼ばれる学問で、紅羅坊名丸という人は実在の心学者であった。 この話は「子ほめ」や「青菜」などと同じく、慌て者が学のある人の真似をしようとして失敗する粗忽噺、滑稽噺の典型的なものである。わたくしの好きなフレーズはずばり、 こうこうの...こうこうの漬けたい時分にナスは無し...かといってきゅうりも生では齧られぬ... 江戸版の「天災」にはこのフレーズ出てこないようで、上方版の方に出てくる。今回は柳家小さん師匠の高座の録音をベースにしたが、このフレーズだけは特別に突っ込ませてもらった。 |
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