独立した個の確立をめざす社会科教育への一考察


1 はじめに
 1999年後期社会科教育特別演習Tにおいて,学習指導要領における社会科の変遷,特に地理教育にかかわる内容の取り扱いに視点を当て,研究論文や実践事例をもとに現在の社会科教育の在り方について議論してきた。ここでは,そこでの議論をもとに新しい世紀における社会科教育のあるべき姿についての考察を行う。

2 問題の所在
 伊東は,戦後成立した社会科の功罪について論じる中で,社会科解体の必要性を訴え,その成立のあいまいさを社会科が安定しない原因の一つであるとしている。つまり,戦後アメリカの一部州の社会科をモデルとして作られた日本の社会科は,日本人をアメリカ的に政治的社会化するために社会科が強制されたとも言われる程その正当性が疑われている。その後,学習指導要領の改訂とともに社会科もその形を変えてはきたが,本質的には効率性・合理性を重視するアメリカの教育観が根強く残っているのである。しかし,環境問題をはじめとした社会問題が社会科の中で取り扱われるようになってからは,従来の社会系諸学問をどう位置づけて構想するかが問題となってきている。
 また,社会科の目標を公民的資質の育成と表することが多いが,ここで言う公民の意味についても考えなければならない。戦後アメリカの占領下におかれた日本においては公としての官(政府)を中心とした復興および発展が進み,民としての個はあくまでもよりよい社会を構築するための個であることを求められてきた。今日,多くの日本人は,自らの行為を無意識のうちに決定させられていることがある。それは,公としての社会のもつルールや慣習など人間の規範意識に働きかけるものであり,他人志向の強い日本人にとっては自ずと個の主体性を喪失させるものとなっているのである。この個の問題とともに,民主主義と言いながらも個の意思が反映されにくい集約段階での問題も考えられる。
 さらに,国際化やジェンダーなどの視点から社会のグローバル化やボーダレス化が進み,新たな社会の枠組みが要求されている。その新たな社会の枠組みが教育に与える影響も当然大きく,社会科においてはカリキュラムの要素を抽出・選択する際の新しいフィルターの役割を果たすのである。
 そして最後に,個性を重視した教育をと言いながらも,受験によって一斉画一的な知識偏重の教育がなされていることも事実であり,そこにはグローバル化とITの発達にともなうブラックボックスの拡大によって,経験に基づかない知識が氾濫していることも認めなければならない。
 以上の点に鑑み,「21世紀日本の構想」の中でも謳われているように今後社会科教育に求められるものは,独立した個の確立をめざすために必要な力を育成することであると考える。

3 問題への対処
3-1 主たる行為者を育成する社会科
 バトラーは社会構成論の中で社会を構築するのは文化であり,その文化を変容するのはアカウタブル(説明することのできる)な行為体であるとしている。つまり,責任のある個が社会を構築していくということであり,その点では地球市民やシティズンシップを育成する教育につながる考えである。したがって,社会問題に正対し主体的で民主的な行為者の育成を基底においた総合社会科として実践が求められるのである。そのためには,個と社会とのかかわりを重視し,社会のための社会を考えるのではなく個ための社会を考える学習を展開していかなければならない。

3-2 拡大するブラックボックスへの対応
 グローバル化やボーダレス化によって新たな社会の枠組みが形成されるとともに,個においてはブラックボックスに含まれる社会事象が急激に増大しつつある。この傾向はさらに進展しつつあるが,この拡大するブラックボックスに対応するためには,経験に基づいた確かな知識と批判的な思考によって氾濫する情報に溺れることなく自らの意思を決定することのできる学習を構想していかなければならない。この点で,学習者の身近な地域に働きかける地域調査による学習やメディアに対するリテラシーを高める学習が有効であると考える。

3-3 バランスのとれたカリキュラムの構想
 平成元年の学習指導要領の改訂によって小学校低学年に生活科が導入され,今既存の教科の厳選が行われつつ総合的な学習の導入が進められている。その主たるねらいは『生きる力』を育成することにある。このことは,これまでの合理性・効率性を重視してきた教育から生活とのかかわりを重視する教育への転換を意味するものである。しかし,この転換が単に知識偏重の教育に対する反動であってはならない。今後は,生活とのかかわりをもった学習を重視する一方,そこでの学習を支える確かな力を身に付ける学習,この両者のバランスのとれたカリキュラムが構想されなければならない。
 ここで学校週5日制の完全実施にともなう時間の減少を考えると,カリキュラムの中に取り入れることのできる要素は自ずと限られてくる。したがって,従来の一般的,普遍的なものを求めず,個や地域の実態に応じた柔軟で弾力的なカリキュラムの構想が求められる。しかし,個にとって理想的な社会を構築するために必要となる要素については一般化並びに普遍化しなければならない。
 また,上の教育ついての二極対立的な考えは,社会科のねらいを公民的資質の育成とする時の「公民」についての社会学的な視点からの考えにも共通するものである。ホイジンガは遊戯性をもつ民,つまり至高性とさらには他者の視点をもつことについて論じている。その意味では学習者が好奇心の塊となって向かうことのできる素材を教材化し,課題についての思考を高める場を設定していくことが必要となるであろう。

3-4 子どもとともにつくる社会科
 外山は「子どもとともにつくる社会科学習は,教師による管理と教科書に縛られた社会科実践の閉塞状況を打開する新たな学習指導論であると今後注目されると考えている」と述べている。「一人一人の子どもを大切にした…」とはよく表されることばではあるが,いざその実践はというとこれという具体的な内容を提示できない場合がある。ここで,子どもの主体的な学びを支える教師の役割が注目される。その具体的な内容については様々な視点から考えることができるが,子どもの問いに価値を見出し,子どもとともに学ぶ姿勢で,問い続けることを可能にする環境づくりを柱として取り組まなければならない。そこには,子どもの可能性を信じることのできる教師の姿勢が求められるのである。
 外山は阿部謹也のことばを引用し,「自分が社会の中で,どのような位置にあり,社会のために何ができるかを知っている状態,あるいはそれを知ろうと努力している状況を『教養』がある。」と述べている。つまり,学ぶことの意義,ひいてはいかに生きるのかということを教師自身がどう考え,子どもたちに目的(=教師の願い)をどう明らかにしているかが問われているのである。

4 おわりに
 21世紀の社会科について考える中,教師になってからの自分自身と社会科とのかかわりについても大きな問題が浮かび上がってきた。それは,常に現行の学習指導要領を大前提として単元を構想し,学習を展開してきた教師としての自分である。確かに現場の教師として学習指導要領を無視した教育活動を行うことはできないと言いつつ,完全に実行しているとも言えないのである。そして,いつの間にか「はじめに学習指導要領ありき」と考えることの正当性を疑うことさえ忘れていたのである。
 21世紀に向け,独立した個の確立が求められている今,既存の概念にとらわれることなく,社会問題に正対しながら社会に対して自らの意思を表すことのできる個の育成を図らなければならいのである。つまり,篠原先生の「景色を見る目を養う」教育,言い換えれば「本物を見る目を養う」教育が求められているのではなかろうか。
 今後は,「教育」「社会」「社会科」などの既存の概念について再考し,学習者の視点から自分の立場と実践の方向を明らかにできるよう社会科教育で育成すべき能力についての研究実践を深めたい。最後に,社会科教育の在り方について今後考えていかなければならない問題についての示唆を与えていただき,さらには多様な視点からご指導くださった篠原先生に感謝の意を表したい。

【参考文献】
伊東亮三「社会科と文化科―混迷状況からの脱出をめざして―」社会科研究41 1993 (p.1-10)
伊東亮三「社会科教育の功罪」社会科教育論叢第41 1994(p.26-33)
臼井嘉一「社会問題に正対することとシティズンシップを育成すること」社会科教育論叢 1994 (p.18-25)
外山英昭「子どもとともに社会を学ぶ〜「子どもとともにつくる社会科学習」とは何か〜」社会科教育研究第501999 (p.91-100)
工藤文三「社会認識の基本問題と社会認識教科のカリキュラム構成―社会学の理論を手がかりにして―」社会科教育論叢第40 1993 (p.37-49)
栗原福也『ホイジンガ その生涯と思想』潮出版社 1972
上野千鶴子・竹林和子「対談 ジェンダー・トラブル」中央公論 1999