学校・家庭・社会の自己責任と教育


1 はじめに
 最近のテレビCFの中で,学校・家庭・社会を代表する三者が,子どもに見立てた一体の人形を次々と投げ渡し,最後にはその人形を放り出してしまうという場面を目にする。これは,子どもたちの教育に携わっている三者の在り方を社会全体に問題提起することをねらいとしたCFである。
 さて,このようなテレビCFが放送される中,四国新聞紙上においては,徳島文理大学大学院教授・小野修氏の「学校の責任転嫁」と題した論説が,地元教育界を中心に大きな論議を呼び起こしている。元県児童相談所所長でもある小野氏は,その論説の中で不登校などの問題を抱えている子どもたちとの関わりを通した事例研究をもとに,現在の学校や専門職としての教師の在り方を厳しく追及している。
 本論では,小野氏によって問題提起された学校の責任の問題をはじめとして,子どもたちの成長に大きな関わりをもつ家庭・社会の責任について,自己責任という視点からの考察を行う。

2 日本社会における自己責任
2-1 社会の現状
 世界で一番安全にお金をかけているだろう日本で,なぜ建設事故率が高いのか。その疑問の先に自己責任の欠如と個人の過保護風潮があると九州工学大学名誉教授・渡辺明氏は「自己責任と連帯責任」の中で指摘している。
 「駅のホームに電車が入るたびに「白線の外側には立たないで下さい」というアナウンスが繰り返され,運転者にはヘルメットとシートベルトの着用をくどいほど呼びかける。この現状に外国人留学生があきれたと言う。酔っぱらい運転の自転車が転倒してけがをした事件で,道路管理者のみの責任が追及された。小中学校の運動会から棒倒しや騎馬戦が消えたのは,事故が起きた場合の保護者の責任追及があまりに激しいためだと言う。昔は河川の流域住民が自発的に堤防を守っていたが,今や不測出水事故でも起こればひたすら管理責任を問うばかりである。」と渡辺氏は嘆いている。さらに,「中国の季鵬氏が「20年後には日本という国はない」と断言したとも言う。個人の異常なまでの権利主張,連帯感・国家観の喪失,そして省庁・銀行の不祥事など,確かに日本の将来は不安である。」と付け加えている。
 ここに,これからの日本社会全体における自己責任の徹底の問題が大きく問われているのである。

2-2 自己責任の必要性
 桜井氏は,「どのような場合にも,必ず出来事の原因はある。その出来事のルーツにさかのぼって失敗を検証し,そのつどの責任の存在を明確にしてゆくことが必要である。直接責任が無い者に対して共同責任や連帯責任を問わせるのは,失敗をごまかす権力者の常套手段であり,「自己責任」という言葉は責任概念を曖昧化する方向でしかない。」とその著の中で述べている。しかし,無責任システムが放置された現在の日本社会においては責任追及も重要ではあるが,だからこそ「自己責任」が問われなければならないのではなかろうか。つまり,自らの判断に基づき行動し,その結果に対して責任を負うという「自己責任」の行動理念の確立が不可欠であるということである。

3 学校教育における自己責任
3-1 学校の自己責任と校長
 欧米先進国にキャッチアップする過程で形成されてきた戦後50年の社会システムを,独自性が発揮できる創造型の社会システムに転換するための具体的な方法として規制緩和が推進されている。
 教育界においても,学校運営における自由裁量の拡大,学級編成の弾力化,学校選択の自由化など,規制緩和の波が広がってきている。しかし,この規制緩和により,地方教育行政の自己責任の範囲が拡大するとともに,個々の学校においても自己責任による運営が迫られることとなる。これまでの行政主導型の学校運営から,新しいビジョンや理念を構築して斬新な改革を断行することによる学校の個性化が求められているのである。
 ここで大きな鍵となるのが,校長のリーダーシップである。学校運営の自由裁量権の拡大は校務掌理権をもつ校長の権限の拡大を意味するものである。このことは,学校の自己責任が校長の自己責任を問うことであり,校長の責任を明確化することが必要であることにつながる。従って,自己責任が問われる校長という立場に立つ者としては,その力量とパーソナリティが求められなければならない。

3-2 専門職・教師としての自己責任
 三和総研では,研究員を個として尊重し,不必要な管理をせず,服装も,勤務時間も,また人事異動ですら本人の自由にしている。山本社長は,「この会社には自由闊達な風土がある。文化と文化がぶつかり合い,融合し合う様なダイナミズムがある。この風土の中で最大限の能力を引き出してもらうために,社員を拘束している規制を極力なくしていく。」と述べている。三和総研が研究者に望むことは,最高のアウトプットを追求してもらうことである。それを阻害する不必要な拘束やヒエラルキーは極力排除していくことを方針としている。ここまでの内容も,管理する側の問題として行政及び校長の在り方を問うものであるが,さらに三和総研では,研究員に対して自分の仕事や自分の成長については自分で責任を持つというプロフェッショナルとしての自由と自己責任のルールが存在することを付け加えている。正に,この点でプロフェッショナルとしての教師の在り方を自ら問わなければならないのである。
 しかし,このプロとしての自らの成長にかかわる教師の問題として,現場での経験から次の6点をあげることができる。

(1)発想の転換を迫られる教師
 開かれた学校が謳われ,企業における戦略的な発想が学校にも求められている今,事なかれ主義のお役所的な考えが多くの教師の中にあることは否定できない。基本研修をはじめ,校長・教頭研修などで,リーダーシップや経営に関する研修が行われてはいるが,その絶対時間は少なく個人に任されているのが現状である。

(2) 社会の変化と管理的な経営に流される教師
 個人が尊重される社会となり,教師集団の中でもその傾向が見られ,職場よりも家庭や自分を優先する考えが広がっている。さらに,文部省や県市町村の教育委員会による管理的な傾向が強まる中,「つつがなく…」と前年度を踏襲しようと考えたり,形式的な指導にばかり専念したり,さらには小野氏が言うように問題発生時には責任転嫁したりする教師がいることも事実である。

(3) 年功序列による機能しない主任教師
 学校経営の中心的な機能をもつ企画委員会に参加する主任の選定そのものが,年功序列的な考えによるものであり,その職責の意義についての研修を受ける機会は十分であるとは言えない。この点に関しては,その任に身を置きながら管理者である校長・教頭から直接指導を受けることとなるが,管理者の指導力の差も大きい。このことは,主任とは言え所詮教諭であるという階層の在り方にも問題があるのかもしれない。

(4) 自分の仕事と成長を自己評価できない教師
 他者からの客観的かつ明確な評価が難しい教師という職業においては,教師自身が専門職にあることをどう自己評価して,どういう姿勢でその任務の遂行に当たろうとするかが大きな要因となる。自らを過大評価したり狭い視野で評価したりした場合には学級王国を築くこととなり,反対に過小評価したり専門職としての意識が欠落している場合には他力的であったり,教師としての姿勢そのものに問題がある場合がある。

(5)「できない」ということを認められない教師
 教職に就くためには,高等教育を受け教員免許状を有することが条件となる。昨今の教員の採用においては,その数の激減という現状から,厳しい選抜が行われている。従って,その資格及び選抜そのものが教師の自尊心を高めることにつながっている。また,男女の別,出身大学の別等もこの教師の自尊心に影響を与えているものと考える。さらに,教職に就いてからの経歴,特に新採時の赴任校の校種や規模も原因であると考える。
 また,企業などと異なり定められたノルマの達成という数値で明確に表される評価が行われないこと,教師という専門職としての性質上,新採当時からその独立した存在が認められていることなどから厳しく叱責される経験が少ないこともその原因の一つとしてあげられる。

(6) 経営者としての力量を求められる管理職教師
 教師の資質向上という点からは学習指導を第一とすることに異論はないが,変化が激しく多様化している昨今の社会情勢を考える時,リーダーシップや経営の問題を個人に任せておくことに疑問を感じる。なぜなら,管理者である校長・教頭としての在り方もまた自己評価によるところが大きいからである。
 J.W.ガードナーは,「リーダーがフォロアーズにもっとイニシアティブをとるよう育成し,自ら判断して実行するよう勇気づけ,成長の可能性を与え,より大きな貢献者になれるよう手助けするときこそ,集団目的も最も効率的に達成される。」と述べ,リーダーシップとは人材育成であり教育であるということから,任せるということの必要性を説き,フォロアーズの失敗をいかにカバーできるかという力量の問題を主張している。

4 家庭・社会における自己責任
 ここで,現職教員の立場にある私が,不登校などの問題傾向をもつ子どもたちの行動責任を家庭に求める論述を行うことは,小野氏の言う責任転嫁に当てはまるものであろうが,私がこれまで抱いてきた次の一点に限り敢えて論じたい。
 それは,子どもに問題傾向が見られるようになる前までの家庭の自己責任の問題である。つまり,保護者をはじめとする家庭が日常的にどう子どもにかかわってきたかということを問題としたいということである。資本主義の発展により社会的分業が進み,教育にかかわる役割はすべて学校が果たすべきものであるという意識が社会の中に蔓延してきている。本来,子どもの教育の最終責任は親権者である保護者が果たさなければならないところ,学校だけでは期待できないと感じると,学習塾や習い事などにその責任を求めようとするのである。子どもの能力を高めたいという保護者の願いは分かるが,そこに保護者が自らかかわろうとする姿が見られないのである。子どもの学習に遅れを感じた保護者が,すぐに子どもを学習塾に通わせ,「高い月謝を払っているのだから…」と言って子どもに精神的ストレスを与える場合がその典型である。それまでに,その保護者は子どもにどうかかわったのかということを問いかけたい。組織においては危機管理意識の問題が大きく取り上げられる昨今,家庭における危機管理意識を子どもの教育という視点からも考えなければならないのではないか。事なかれ主義は,単に組織の中だけでなく家庭においても日常的に問題化しているのである。
 社会の自己責任の事例として,去る8月4日に高松市教委が小野氏を講師として招き,市内教員を対象に心の教育と題して開催した講演会を取り上げたい。この講演の中で,小野氏は「必要なことは子どもたちが教えてくれる」として,教師の自己直視と自己変革の大切さを説き,外部の意見に耳を貸さない独善的な態度に陥っていないかどうかを直視する必要性を鋭く指摘した。この時期に早速こうした講演会を開催した高松市教委は,行政としての自己責任を果たしたものであると評価できる。つまり,二律背反的な立場に陥りやすい学校と家庭,この両者の関係を調整し有機的に関係づけるのが行政のコーディネーター的役割であると考える。社会に属するものは行政だけではないが,社会を構成する各組織が,未来の社会を担う子どもたちの教育に果たす役割の大きいことを自覚し,積極的な取組を行わなければならないということである。

5 おわりに
 本論では,自己責任の問題について学校・家庭・社会の各視点から論じてきたが,今後求められることは,子どもたちを取り巻く問題だけでなく教育そのものを,責任の所在を求めるスタンスではなく,常に主体者としてのスタンスからの考え行動しなければならないということである。つまり,自分の立場と責任を明確にし,何ができるのか,何をしなければならないのかと考え,共に協働して行動しなければならないということである。そして,学校・家庭・社会を構成するすべての成員が人間としての成長を求めていくならば,その過程において「自己責任」とともに「自己開示」「自己点検」という3つの「自己」の観点が重要となる。
 最後に,先日国内で初めてハイジャックにより死亡した長島機長の話題がその後も報道されているが,その中でハイジャック2ヶ月前の5月に機内で発病した救急患者を遠隔医療によりその命を救ったという事例が取り上げる。その中で,長島機長の操縦する全日空機の後方を飛ぶ日航機の中から長島機長を経由して全日空機に搭乗していた新前看護婦に指示を送った医師は,「今回,長島機長からは,それぞれ違う立場の者が,自分の責任を果たそうと一生懸命努力することの大切さを教えてくれた。」と語っている。今,私たちに求められることは,自己責任を明確にし,その責任を果たそうと真剣に努力することではなかろうか。

参考文献
加野芳正,1999,「自己責任」の論理と学校教育
桜井哲夫,1998,『自己責任とは何か』,講談社現代新書
渡辺 明,1999,「自己責任と連帯責任」,建設業界1999.2
岡東壽隆,1994,『スクールリーダーとしての管理職』,東洋館出版
.W.ガードナー著・加藤幹雄訳,1993,『リーダーの本質』,ダイヤモンド社
四国新聞,1999. 5.30,「論点香川」

四国新聞,1999. 6.28,「追跡」
四国新聞,1999. 8. 2,「追跡その後U」
四国新聞,1999. 8. 5,記事「高松市教委・小野修さん講師に講演会」