伊予三島市における野外調査


1 伊予三島市の概要
 伊予三島市は,愛媛県東部に位置する人口4万人ほどの地方都市である。四国山地が瀬戸内海に最も迫った場所なので平地が少なく,江戸時代からの和紙づくりが明治以降洋紙づくりとなり,その過程で発展してきた。製紙産業がなければ未だ「町」のままであっただろうし,農業中心の人口1万人強の町でしかなかったのではないかとも言われている。工業地帯なので空気はよいとは言えないが,山と海が近いので自然は豊かであり,水はおいしい。気候の特徴として,局地風の「やまじ風」が有名である。
 歴史的には,元正天皇の養老4年(720年),宇摩の大領越智玉澄が大山祗大神を勧請したのがこの地の起源だと言われる。天正年間に,小早川・福島氏などの支配を受け,寛永3年(1626年)には今治藩主となった松平定房により陣屋が置かれ,郡内18ヶ村を統括する中心となった。明治22年の町村制実施により三島村となり,明治31年に三島町に昇格した。昭和29年に6ヶ村が合併し,伊予三島市が発足した。市の花にはツツジ,市の木にはクスノキが指定されている。


2 調査の実際
2-1 豊岡町長田
・大地川と扇状地
 中央構造線は,諏訪湖南に端を発し,紀伊半島から四国の吉野川沿いに西走し,松山,佐田岬半島を経て九州・八代に達する西南日本を縦断する大断層線である。この断層線が,伊予三島市付近では,ちょうど松山自動車道と一致する。断層の南側には,豊受山(1,247.4m),鋸山(1,017.4m),翠波峰(891.9m)を結ぶ尾根を分水嶺とする四国山地が連なり,北側には沖積平野の宇摩平野が瀬戸内海との間に細長く広がっている。このように断層の両側の地形にはっきりとした差が見られる。また,写真1のように,山の端の尾根線が三角形となる三角末端面からは,断層が垂直方向に約1,500mずれていることが分かっている。

写真1 写真2 写真3
 写真2のV字谷から流れ出す大地川は,地形図では青色の波線で表される水無川であるが,その流域は傾斜1/10の扇状地を形成している。調査当日は,前々日まで降り続いた雨の影響で川に多量の水の流れが見られた。この大地川の流れが大きく右にずれていることから,断層が右にずれたことが分かる。また,大地川の西には同様の面白川の流れを地形図で確認することができる。さらに西部を流れる関川の河口には,干潟とその干潟を干拓によって人工的に開いた地形を読み取ることもできる。
 また,この付近の川の中には,この地方特有の緑色をした平らな石を多く見ることができる。これは伊予の青石と呼ばれる結晶片岩であり,多くは庭石として利用されている。(写真3)

道標
写真4
 写真4の道標は,明治41年8月に建立されたもので,その表面には「金刀比羅大門まで11里」「三角寺まで3里」「前神寺まで8里」の文字が刻まれている。つまり,この道標前の道路が金刀比羅参りの街道であり,遍路道であったことを示している。前神寺の前神とは石鎚山のことを意味する。当時は1間の8分(約
1m50cm)程の道幅であったものが,自衛隊の前身である善通寺第11師団と松山第22連隊とを結ぶ軍事道路として改善され,昭和33年に北側を走る現在の国道11号線が整備されるまで主要道路としてその役割を果たしてきた。この道標のすぐ西の荒れ地には「紀川…道禅信士,小松屋安兵衛」と刻んだ墓標があり,この墓標からは旅の途中この地で命を絶った旅人を手厚く弔ったこの地の人の温情を図り知ることができた。
 また,この道標付近の自家菜園では,トウモロコシ・サツマイモ・アカヂソ・ミョウガ・ゴマ・サトイモ・ネギ・ナスビ・落花生などが栽培されていた。

洪積台地と断層
写真5 写真6
 写真1の地形からは断層ができた後に扇状地が形成されたことが分かったが,この写真5の地形からは洪積台地が形成された後に断層ができたことが分かる。
 また,写真6の畑ではヤマノイモと呼ばれるイモ類に属する作物が栽培されている。ヤマノイモは,昔から水不足に悩まされてきた人々が, 大量の水を必要とするイネからの転作を考えて 選んだ作物である。このヤマノイモは,和菓子の材料として使用され,このヤマノイモを和菓子の中に混ぜることでその仕上がりを柔らかくすることで重宝されている。このヤマノイモ畑では,雑草防止・保水性向上・肥料というねらいから畝の表面を藁で覆っている。マルチではなく稲藁を利用していることから,病虫害の発生を防ぐためにイネの連作せず,イネとヤマノイモとの輪作をしていることが分かる。

やまじ風と家屋
 この地方の家屋の特徴として,写真7のような石置きの屋根をあげることができる。この石置きは,「やまじ風」(山からの風の意)から屋根を守るためのものであり,この地方に局地的に吹く風の強さを知ることができる。このやまじ風は,南からの季節風が吹く頃,宇摩平野に面した四国山地の急な斜面を吹き下ろしてくる風のことであり,山中にある風穴神社へは365個の団子を持って当番で1組の夫婦が参詣し,風穴へ団子を入れて祈願する風習さえあった。  しかし,現在では石置き屋根の家屋も減少し,鉄筋コンクリート造りの家屋が多くなっていることが表1の家屋調査の結果から分かる。54.3%もの家屋が鉄筋コンクリート造りであることは特異なことであり,この数値からもこの地域の人々が住宅建築時の条件としてやまじ風への対策を第一としていることを推測することができる。
写真7


・金比羅常夜灯

 写真8の金比羅常夜灯は,寛政9年(1797年)9月吉日に,当地,長田村の人々が街道を行く旅人の安全を願い建立したものである。灯籠部分は花崗岩,その上部及び下部は凝灰岩,土台となる部分には伊予の青石が使われている。 街道沿いではこのような常夜灯や道標などを随所に見ることができるが,実際にはさらに数多くの常夜灯や道標が建立されいる。しかし,現存していものはその一部であり,中には心ない人によって破壊されたり,持ち去られたりしたものも少なくはない。
 こうした史跡は,私たちが過去の事実や当時の人々の願いを学ぶための貴重な資料となるものである。したがって,その価値を重視し,当時のままの姿で維持管理する方法を考えるなど,保存に努めなければならない。このような貴重な資料の減少は,子どもたちの生きた学びを阻害するものとなる。

写真8 写真9


豊岡川
 豊岡川は,河床が周囲の平野面より一段と高くなった天井川の構造をもつ河川である。この天井川は,河川の運搬した砂礫が堤防の間を埋めることによって形成されるものである。この運搬力の大きさは河川の傾斜と大きく関係し,その点からこの豊岡川などは上流のV字谷の傾斜が大きいことから運搬力も大きいものと考える。また,この豊岡川の河床の石にも伏臥構造が見られる。伏臥構造とは,上流から流されてきた石が,先に止まった石の上流側に重なる時に下流に向かって起き上がった状態にあることを示すものである。この伏臥構造の向きから,過去の河川の流れる方向を知ることができるのである。(写真9)


2-2 豊岡町大町
寒川断層と湧水1
 中央構造線と海岸線に挟まれた宇摩平野の中央を寒川断層線が東西に走っている。この寒川断層の断崖面には,土砂崩れを防ぐために植えられた竹林が見られる。この竹林のある断崖面の下部には洪積台地に降った雨が地下水となり,その地下水が湧水となって湧出しているところがある。(写真10)
 人々は,上水道が敷設されるまで,この湧水を生活水として利用してきたのである。(写真11)また,上水道が整備された現在でも,これらの湧水を利用している様子も見られた。(写真12)
写真10 写真11 写真12


2-3 寒川町西村
断崖面の露頭
 断崖面が露頭している部分においては,その中に見られる石の向きによってどのように段丘ができたかが分かる。 また,多くの箇所でこうした断崖面の保護工事が行われているが,以前工事された保護壁に亀裂が見られる箇所がある。これは,中央構造線が現在もなお動いている活断層であることを示すものであり,その移動の大きさは1000年に5cm〜10cmであると言われている。(写真13)

写真13 写真14 写真15


2-4 寒川町西原
西谷川
 この地点から南側に見える西谷川の流れとさらにその上流のV字谷との位置関係を見ると,大地川でも確認されたように右方向へのずれが見られる。このことからも,この付近の土地全体が断層によって大きく右にずれたことを理解することができる。(写真14)

寒川断層と湧水2
 平野部の断層線においても写真15のような湧水が存在する。この湧水は,最近ポンプによって汲み上げるようにしたものである。この地点は,平野の中で最も低い場所であり,ここから海に向かう下流域はこの地点よりも高くなっている。このことは,明治39年測図の地形図において,断層線の南側では水田が多く,北側では畑や空き地が多いと言う土地利用の様子からも分かる。つまり,下流域では水を得ることが難しかったため畑や空き地が多くなったと言うことである。

2-5 寒川町新長谷寺
新長谷寺
 この新長谷寺は,奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山である長谷寺(別称,本長谷寺)ゆかりの寺院であることからその名が付けられた。その昔,長谷寺において行基が試作品として彫った観音像を海に流したところ,この地長谷川下流の海岸にその観音像が流れ着いたと言われている。このことから,当時の人々がその観音像を本尊として信仰し始めたのがこの新長谷寺の始まりである。このことは,長谷川下流の石碑にも記されている。(写真16)
 この新長谷寺の本堂は,山門奥の階段を上がった静閑なたたずまいの中にあり,一時の涼を感じさせてくれる風情がある。また,山門を入ったすぐ左手には,正岡子規ゆかりの愛媛県らしく歌で訪れた人々を迎えてくれる心遣いがある。さらに,新長谷寺の敷地の中には写真17の銅山川疎水からの分岐もあり,この場所が人々の信仰の場所であると共に実生活とも密接に関わっていた場所であることが分かる。この分岐では,水量による水争いが起こらないように,上流からの水を三段階でならすという工夫がなされている。

写真16 写真17 写真18

銅山川疎水とくみじ
 写真18の銅山川疎水は,水不足に困っていた東予地方の人々が分水嶺南にある金砂湖からの水をひくために敷設した人工の水路である。この疎水からの水が前述の新長谷寺の敷地内にある分岐を通り,その下方で3つの水路の分かれ(写真19),さらに分岐しながら西寒川地区の人々の生活水として各家庭へと運ばれている。(写真20)

写真19 写真20 写真21

 各家においては,水路の水をくみじを設けて引き込み利用している。(写真21)この地域では,水路ごとに生活共同体となる集落が発生したり,分家をする場合は本家から下の水路や全く別の水路に家屋を建築したりするなど,水路が住民を結びつけたり,特有の風習を残したりするなど,水路を中心とした生活を営んできたことを知ることができる。当時は,このくみじからの水をいったんかめにためてから飲料水として利用していた。現在,このくみじの水は,上水道の敷設により中心的に利用されることはなくなったが,野菜を洗ったり,汚れの少ない衣類を洗ったりするなどして利用している。しかし,新しい住宅を建築したり,この地を離れていった家では,くみじそのものが姿を消したり,荒れてしまったりしている。

2-6 寒川町原口
・西寒川地区の作付け作物

 上の表2及び図1の寒川町原口地区の作物調査の結果から,西寒川地区ではイネの栽培が48.6%,続いてサトイモ24.3%,ヤマノイモ11.4%と,イネの栽培が1/2しかないのに対して,サトイモ,ヤマノイモを合わせたイモ類の栽培が1/3を占めているのが特徴的である。これは,この地域が昔から水不足の問題を抱えていたために,イネよりも少ない水で栽培できるイモ類の栽培を人々が選んだためである。さらに,台風時の強いやまじ風を受けてもイモ類の方がイネよりも倒れにくいということももう一つの理由として考えられる。このように,作物の栽培においても水と風の問題に対する人々の営みが見られる。

2-7 寒川町江之元
寒川港
 この寒川港は,江戸時代に藩が貧民対策のために公共事業として取り組み開いた港である。当初は漁村であった寒川港が,明治時代以後は銅の積み出し港として栄え,現在,港内には大型の底引き網漁船から小型の刺し網漁船や一本釣り漁船などが係留され,漁港としての機能を果たしている。この寒川港から東に向かう海岸線は,すべて護岸工事が施され人工海岸の姿を見せている。このことは地形図上からも確認することができるが,平野の狭いこの地域の人々が新しい土地を海へと求め,海を干拓することによって必要な土地を築いてきたということが分かる。また,卸売市場付近には運動公園も造られ,伊予三島市の新しい一面を見ることもできる。ここから東へ進むと市の中心部に入り,さらにその東には大王製紙などの製紙工場を中心とした臨海工業地域が続いている。

2-8 具定町下具定
水準点
 写真22は具定町下具定の火の見櫓下にある37.4mを示す水準点である。私自身水準点を間近に確認したのは初めてであり,今回の調査で初めて用語と実物とを結んで認識することができた。知識中心の学習ではこのようなことも珍しくはなく,まだまだ同じ様なことがあるものと考える。

写真22

2-9 中之庄町
・荒神森
 大谷川沿いの住宅地域の中に小高く盛り上がった森があるが,ここが荒神森と呼ばれる所である。この森の中に湧水が湧出する場所があったことから住宅地としての開発を免れた。福王水と呼ばれるこの湧水を利用するための水路とくみじがここから下の地域にも設置されている。また,この森の中にはツバキなどの照葉樹が多く生育するとともに,昭和2年に中之庄地区に初めて簡易水道が敷設されたことを記念する碑も建立されている。

光明寺の日時計
 大谷川の水を灌漑用に利用してきた人々は,それぞれの田に水を入れる時間を計るために,光明寺の敷地内にある写真26の日時計を利用してきた。この地域の人々は,時計のなかった頃からこの日時計で時間を計り,「大谷水持分表」と呼ばれる水の管理表に従って各田に水を入れていたのである。 この日時計は,昼間は中央の穴の中に棒を立てて日時計として使用し,夜間は彫り込んだ線の部分に抹香を入れて抹香時計として使用していた。
写真23

・中曽根のはま木
 銅山川疎水からの水路の水を調整して配分するための仕組みにはま木と呼ばれるものがあるが,今回調査したはま木は一部破損していた。

3 調査を終えて
 これまで伊予三島市へは,自然に恵まれた金砂湖や翠波高原などの山地部を中心に数回足を運んだことはあったが,目的をもって平野部を訪ねることはほとんどなかった。実際のところ,新居浜・今治・松山・宇和島へと向かうためにこの付近を自動車で通っていても,製紙工場から漂ってくる臭気のため自動車の窓を閉め,その姿を車中から眺めるだけであった。特に,松山自動車道が整備されてからは,位置的に高くなった高速道路から見える伊予三島市の市街地や工業地域を眺めながら通り過ぎるだけとなっていた。
 今回の調査で伊予三島市を訪れ,実際に自分の足で歩きながらこの地を歩き,それぞれの場所で篠原先生の説明をもとに調査を実施したことにより,これまでの伊予三島市とのかかわりでは得ることのできなかったものを1日にして数多く得ることができた。しかも,今回の調査で得た知識は,単に机上の知識ではなく実物との関わりを通して得た生きた知識となった。
 さて,今回調査した伊予三島市は,断層・扇状地という地形の上で,水不足とやまじ風という気候条件を克服しながら生きてきた人々が築いた市であった。水不足と言えば香川県が全国的にも有名で,水不足対策として造られた満濃池は,現在多くの観光客が訪れる観光資源ともなっている。しかし,同じ水不足という問題を抱えてきた伊予三島市においては,銅山川疎水とそこから各地域へひかれた水路,さらに各家屋ごとに設けられたくみじによってこの問題へと取り組んできていた。それぞれの施設は,満濃池ほど大型で目立つものではないが,満濃池の造営に勝るとも劣らない努力を要したのではないかと考えさせられるものであった。この地を歩いてみて初めて知ることができた一例である。そして,上水道が整備された今もその施設を活用し残している人々の生活を実際に見ることで,この地に生きる人々のその価値を理解し大切にしていこうとする心にもふれることができた。
 とは言っても,伊予三島市を毎年調査で訪れている篠原先生の言葉からも分かるように,この地においても徐々にこうした過去の人々の生活を黙って教えてくれるものが少なくなっていることも事実である。今後,子どもたちに地域の歴史や人々の生活をを語りかけてくれるものをそのままの姿で残していくことも地域調査による教育を支える大きな要因となるだろう。こうした意味から,野外調査は教育における一手段ではなく,ある事象にふれながら知ることを通して,そのものに対する愛着を生むという心の教育にもつながるものである。つまり,それぞれの事象の背後には,必ずその事象に関わってきた人々の思いや願いがあるからである。