日本創世古代史・国宝を超える「明日香河先史遺跡」、東四国「香河京」(香川徳島両県)ソガ『蘇莫者』遺跡「世界遺産」登録申請運動中、「飛鳥・橿原ユネスコ協会」観光加盟申請、提携運動中


ようこそ ! 知られざる史実 東四国「香河京」(香川、徳島両県)は「明日香河」の祖(おや)でござる ー 「紀」が如意不記載のソガ『蘇莫者』天皇位先史史実


『倭』発祥「ルーツメッカ」がさかのぼれる驚異の「香河京」ソガ『蘇莫者』遺跡。それは「国宝を超える」 BC205 から 645、および 696 までの『倭』発祥創世古代史。香川県讃岐山脈で「八岐(やまた)」山頂をもつ「女体山」に鎮座する四国霊場八十八ヶ寺結願寺やそば「大窪寺」で仏・薬師如来と仮託尊像される『倭人』姉秦宗女「えい峰(豊)(えいほう)」(秦の名「えい」)と、生き延び麓で『風配地蔵尊』(「バカ」弟秦二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」)と鎮護祭祀されている、「夏子(滅亡秦の裔)」の失われた故国、滅亡秦国土『たい』(台+大里偏=魚の「鯛」と重層する。「たい」には「周」原遺跡がつく構成)、現・異国、陝西省「渭水(いすい)」が東流する陝西省「岐山県」中軸)との驚異の『紐帯証左遺跡の連続』を見ることが出来、その一つ、日本版秦始皇帝陵『気延山(きのべさん)』さえこれを見ることが可能。奈良「平城京」覇者に徹底的に蹴落とされ、隠蔽され、虚構「ウソ」構築された、如意不記載の日本創世歴史、ソガ『蘇莫者』「天皇記」「国記」ワールド。


■ 昨年暮(2011)、明日香河・橿原市で「磐余(いわれ)の池」『堤』が発掘され、堤では用明天皇の建物跡も確認された、と発表があった。しかし、これら明日香河・橿原市「磐余の池」には、「香河京」ソガ『蘇莫者』の香川県高松市南部「公渕(きんぶち)公園」の『岩破(いわれ)の池』が先輩格として現遺存しているのに全くの「無知」(日本歴史の欠陥がある)。橿原市「大久保町」の神武陵と廃寺国源寺「大窪寺」(姉秦宗女「えい峰(豊)(えいほう)」(えいは秦の姓)を仏・薬師如来と仮託尊像)は「不即不離体制」で、私方が指摘する『倭(窪)』発祥「ルーツメッカ」からのものだ(中段の『倭(窪)』発祥「ルーツメッカ」見取り図参照)。これが理解できないでいる。

「香河京」「公渕(きんぶち)公園」『岩破の池』(在香川県高松市)はソガ『蘇莫者』が「あまのはら天子の府」として宮居していた「府」一角だ。のちに、645「大化の改新」という陰湿大惨事、『林天皇』蘇 鹿伏(蘇我入鹿)と田村皇子(舒明天皇扱い操作あり。高松市鹿角(かのつの)に「田村神社」を残す) の白刃武闘殺害も「あまのはら天子の府」宮居の一角、「板蓋宮」で『天皇殺し』があったからだ。「紀」の記述内容では、「天皇殺し」を美談化し、虚構「ウソ」構築をしている。「香河京」遺跡はまったく異なる『証左』をし、それらが現・遺存している。「あまのはら天子の府」宮居は香川県高松市「屋島」、「えい洲」女木島(鬼が島)海岸部から、内陸部にわたる、三木町を中心とした、東の袋状平野まで広がっていた。(※ 「えい」はさんずい+秦の姓「えい」 )「夏子(滅亡秦の裔)」香河二役府だ。二役府の首府は今の三木町、三木・長生殿[馮翊府(ひょうよくふ)]、長信補佐役府の寒川(さんがわ)・大角(おおがく)殿[扶風府]がさぬき市寒川(さんがわ)町大川町と「天子の府」役所処であった。

「香河」(=「籠」義)の河源流は、知られざる『倭』発祥「ルーツメッカ」がのこる、異国、陝西省の五河から形成され、首府は西安市の「は河」と「さい河」二川を負い、長信補佐役府は西安市「さん河」を背負っていた。二川は西安市の北東部で合流し、一川「は河」となり、北部「い水」(さんずい+胃)に合流する (※「は河」はさんずい+霸。「さい河」はさんずい+白+匕。「さん河」はさんずい+産)。 西安市西郊の「さい河」は、首府跡三木町に二川と曲流(=韋曲)遺・現存。さらに明日香河・桜井市では「味酒」の三輪山裾「狭井神社」と遺存し、社殿名も「百合の花」の首折れ咲き状態、佐韋河の説明が「記」にあろう。さらに、飛んで東、長野県松本市の「犀川」と現・遺存し、目撃できる明瞭なわが国史料だ。
 




高松市の「公渕(きんぶち)公園」「岩破(いわれ)の池」(公渕(きんぶち)池とも)。池水面の上に「三山」(「SU SUn(ささん=三山)」)が見える。この三連山(三室山)が「香河京」香河二役府のさざんん(SU SUn)花の咲く「香至」冬至祭『籠祭』「讃・SU SUn(ささん)五十(い)祭祀」『嘉平』の歳時信仰対象で、その式典行事は堤で行われていた。右は「公渕公園」「岩破(いわれ)の池」(窪=わ)の至高性をいう高松市十川町「宝地」。

同池の『堤』は万葉集 雄略天皇の冒頭歌「籠もよ み籠もち…」、および万2 田村皇子( 舒明天皇扱い )の知られざる歌謡舞台だ。ことに雄略天皇の治政情報説話は皆無ゼロと喪失されているが(蘇 鹿伏(蘇我入鹿)の仮託像のためか)、「香河京」遺跡では明日香河・橿原市田中町、大久保町、明日香村「雷丘」、桜井市「隠り口」の先史事象が生き活きと蘇る。ソガ『蘇莫者』歴史であるからだ。万葉集冒頭雄略歌の「籠」は「香河」のこと。つづく歌謡「堀串(ふくし)」は、「岩破の池」背後、南の讃岐山脈南側、徳島県阿波市市場町の『ソックリ岐山・香山』(のちに触れる)と再現造山されている山容をさしている山並みが「堀串」舞台である。池『堤』は「香至」冬至祭『籠祭』「讃・SU SUn(ささん)五十(い)祭祀」『嘉平』信仰必然の成立構図場面である。南の阿波市市場町の『ソックリ岐山・香山』は「忘れがたき『常念(じょうねん)』山容」の「岐山(香山)」を再現造営しているからだ。ここに驚異の歴史「紐帯証左」があり、国宝を超え、驚嘆を呼ぶ「山容」(「天柱」)の移遷造営祭祀がある。
 
雄略天皇の宮居はこの「岩破の池」の東隣、三木町「三つ子石池」の「田中雷八幡神社」そば「石塚」あたりと推定され、「紀」がいう雄略天皇と「少子部スガル」との滑稽譚は、三木町「田中」の「三つ子石池」が舞台の真相。ここが明日香河・橿原市の「田中町」(廃寺田中寺か)、明日香「雷丘」の舞台と今日理解されていよう。「記紀」の鵜呑み解説発表である明日香河・橿原市「磐余の池」堤の用明天皇名では分からぬ「香河京」遺跡史実が実存浮揚する。上で見たように「公渕公園」「岩破の池」には明日香河「磐余の池」先史が「香河京」ソガ『蘇莫者』遺跡にあるわけだ。これは 710 奈良「平城京」覇者、藤原不比等が自己政権正当化のため『倭』発祥「ルーツメッカ」がたどれるソガ『蘇莫者』正統人間叙事歴史を切り捨てる『撹乱』作業を「記紀」に施した結果といえよう。如意不記載である。そこには「身の毛がよだつ」『簒奪・簒盗』(下克上)』が秘められていたのだ。以下をご覧あれ。

万2歌謡主、田村皇子( 「紀」に34代舒明天皇扱い操作あり )は高松市一宮町「鹿角(かのつの)」に「田村神社」(祭神倭迹々日百襲姫=桜井市「箸墓古墳」被葬者とされる)を残す。おおいなるソガ『蘇莫者』歴史遺跡の一つだ。「香河京」究明の強力歴史史料となっている。

万葉冒頭歌、万2の堤の下にいまも現実存するソガ『蘇莫者』の遺跡集落。不思議なことに「天智天皇(中大兄皇子)」死去(761)の「紀」記述最後尾に「ここ讃岐山田郡に多足の雛鳥が生まれた」とあり、「不吉な予兆を告げる八個の鼎が鳴った」とあろう。この「飛鳥」は「香河京」歴史でいえば『倭人』姉秦宗女と「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」らの失われた故国、今の、陝西省「宝鶏(bouji)市」の「鶏の雛」であることが『倭』発祥「ルーツメッカ」を知る者には歴史形成因がスグに理解されうる。堤の下集落にはソガ『蘇莫者』血筋を引く「十河城寺」も現遺存している。「岩破の池」『堤』で感嘆驚嘆の声をあげながら「三山(SU SUn)」(三室山、見諸山、三連山)に魅入る歴研「渡来文化の会」一行。真相歴史に触れたのである。写真背後の山容は飛鳥寺大仏鋳造者の「讃岐鞍作」山容。万5歌謡者には同様な「鞍掛け山」がある。なお、山の北側(現・高松市平野)では 645 「香河京」「板蓋宮」で『林天皇』蘇 鹿伏(蘇我入鹿)と万2歌謡者田村皇子( 「紀」で34代舒明天皇扱い )を無頼の徒・中大兄皇子、忠臣・中臣鎌足ら白刃武闘暗殺団により斬殺死する『簒奪・簒盗』(下克上)事件が起こる。中大兄皇子は実父をも斬殺している次第。隋書に見る「天子の府」で惹き起こされた「天皇」斬殺事件、「乙巳の変」(大化の改新)だ(斬殺は別項あり)。雄略天皇と「少子部スガル」の「三つ子石池」は東向きで撮影。右に「八雲」を被る姉秦宗女・仏薬師如来のいます「女体山」が写っている。



 


最後尾の異国「武功県庁」は、香川県サヌカイトと同じ石質加工で、初代天皇神武・山幸彦サヌカイト武功石「岩破(いわれ)彦」が苦難の末、明日香河・宇陀市榛原の旧大和三山の「鳥見山」(単峰、タカミムスビに東征記念報告をする山)で、天(10)に向かい報告し、新たに橿原市で宮居する。この構図は「香河京」首府の△山「白山」麓で践祚大嘗祭(即位式)を挙げる「起承転結」の「結」を顕す。ここに佳境「香河京」と「明日香河」の連携性がある。「香河京」が祖(おや)である。山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」神武の戦勝は、この滅亡秦国土『たい』の、現・陝西省「武功県」特産の「武功石」(あるいは仏教に沿った「焼霊石」とも)の『武功性』を一貫して表明しているのだが。





■ 明日香河・橿原市「磐余の池」堤の用明天皇は、「香河京」ではソガ『蘇莫者』蘇我稲目のことで、「紀」には不可解な「撹乱」二重構造が実存すると指摘可能。その「香河京」の地、高松市海岸部(「えい洲」)「女木島(鬼が島)」「屋島」から三木町、さぬき市長尾町、寒川(さんがわ)町終点に向け走る地元私鉄コトデン長尾線すが走る。路線はソガ『蘇莫者』「あまのはら天子の府」を日毎走っているのだが、権威筋には無知蒙昧の日々が続く



私鉄コトデン長尾線は、奈良「平城京」覇者藤原不比等に『簒奪・簒盗』(下克上)され、むくろ化したソガ『蘇莫者』の宮都(「あまのはら天子の府」)を走っているわけ。そこには日本歴史に明記すべき、特筆すべきソガ『蘇莫者』の正統人間叙事歴史がいまだ沈黙をつづけている現状がある(指摘の欠陥日本史だ)。「池戸(いけのべ)」は「紀」記述で用明天皇の『堤』に該当するが、「香河京」ソガ『蘇莫者』の蘇我稲目(専横大臣位扱い)のことだ。駅「平木(ひらぎ)」名は香河二役府の首府街の名。奈良「平城京」覇者はこれを盗り「平城京」名とする。「奈良」名の興りもさぬき市寒川(さんがわ)町『衰神(みのかみ)』の冬至祭行事の大彦命の「楢(なら) 街道」の『楢』の木に因がある。「天野神社」は百人一首に阿倍仲麻呂歌と撰上されている「あまのはら ふりさけみれば かすがなる 三笠の山に いでし月かも」の『あまのはら』を形成する因。同地のシンボル山容△山△豊(十与)の「白山」は、明日香河・桜井市「隠り口」国道165号線に「白山(比)神社」と移遷祭祀されている。ここに「不老長生」『長生未央(ちょうせいいまだつきず)』がある。「香河京」「白山」麓では初代天皇神武となった山幸彦サヌカイト武功石「岩破(いわれ)彦」が赤玉(柘榴石)歌謡の豊玉姫と華燭の典を挙げる三木町宗像井上の「践祚大嘗祭会殿」「わたつみワニカワ神社」(二社あり)が鎮座する。華燭の典(「香至」冬至祭『籠祭』「讃・SU SUn(ささん)五十(い)祭祀」)を挙げるとき、「記紀」でも豊玉姫が山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」が胸元に『白玉』をつけていることを歌謡して「赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 君が装いし とおとくあり」と記載する。

この『白玉』はソガ『蘇莫者』出自、すなわち、『倭(窪)人』姉秦宗女「えい峰(豊)」の『豊都』五丈原台地の西側ノリ面、陝西省岐山県五丈原鎮「曹家郷」を流れる「白玉河」(大溝)を知るものでないと記述構成は不可能。奈良「平城京」覇者、藤原不比等以下、編纂者はソガ『蘇莫者』の「天皇記」「国記」を知る者でなければ絶対に記載不能だ。645 の「乙巳の変」では「天皇記」「国記」は焼失していなかったことを証左する。不比等はソガ『蘇莫者』出自地の「白玉河」(大溝)や、「岩破彦」が佩びている『白玉』出自をしらなかったことを物語るし、この場面はソガ『蘇莫者』の「天皇記」「国記」をそのまま『簒奪・簒盗』(下克上)しているわけ。南九州「天孫降臨」神武は奈良「平城京」によって虚構「ウソ」構築された構図である。(※ ソガ『蘇莫者』出自は「見取り図」の『豊都』五丈原台地西側の渓谷図を参照)

神社は香川県西讃「大野の丘」海浜から竹籠舟『無目籠』に母育成の「麹カビ」を載せ、山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」が到着し「御酒(SU SU・三木・のちに「味酒」とも)」が醸造完成。「乾」死者の座、出雲大社(死者先帝祭祀)から「王権授受」の洗礼を受ける「践祚大嘗会殿」だ。

奈良「平城京」覇者藤原不比等の「紀」内容とは 180°も就任内容が違い、ここに正統人間叙事歴史保持者ソガ『蘇莫者』の「天皇記」「国記」記述内容がある。天の原「天野神社」隣は出雲大社を鎮護する元締め、社殿「出雲神社」が鎮座。「乾」出雲と三木町「践祚大嘗会殿」とは「御食(みけ)向かふライン」『乾巽軸(いぬいたつみじく)』(のちに解説)が実存。『巽』の井戸であるコトデン「井戸駅」がある(「乾」出雲で八束水臣津野命の子「伊努王」と表記される)。



    


「香河京」三木町「わたつみの宮」「ワニカワ神社」(践祚大嘗会殿)は、『倭(窪)』発祥「ルーツメッカ」の滅亡秦国土『たい』(台+大里偏)に後漢時代(25〜219)、仏寺「法門寺」が再建されたことで、中国名「武功石」サヌカイト石包丁は寺に讃仰し、仏名「焼霊石」という異名をもった。このことが「鯛」(=失われた故国名『たい』(台+大里偏))に重層した「表裏二面性」を持つことになり、釣り漁師浦島太郎の訪れた「竜宮城」ともなる。神仏兼備の殿舎と化した。むろん、「大嘗会殿」と「岩破の池」とは指呼の間にあり、その途中には、「ととひ」伊勢神宮の地主神「興玉神」も三木町「天枝(あまえだ)」に鎮座している。

私鉄コトデン長尾駅(終点)では、BC205 に『倭人』となった姉秦宗女「えい峰(豊)(えいほう)」(「えい」は滅亡秦の姓)、生き延びた「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」(仏名)『風配地蔵尊』をはじめ、スサノオ(「岩破の池」に三連山・三室山「SU SUn(ささん)」山影を映すことから成立した冬至司祭神。スサノオは、徳島県神山町の保食神(うけもちの神)大宜都姫を殺害する。「紀」が構築する十代天皇崇神・御間城入彦五十(い)瓊殖(※ 首府「ミキ」(三木・御酒)名の間に「マ」が嵌入する)、その臣下となっている大彦命。倭迹々日百襲姫(水主神社祭神)、および、人物ではないが、608 中国隋が返礼派遣した使節裴世清と会見した男王「雨垂らし彦」天皇(隋書「阿毎多利思比孤」)の「雨滝山(あまたきさん)」がある。讃岐山脈「女体山」姉秦宗女の「雨乞い祈願」継承の山だ。西安市の宜春苑「曲江池」を再現した「大井河曲(かわわ)」。「大井河曲」は姉弟の「誓約(うけい)」の場所「大井河曲」で、「八神」が誕生する)etc. がそろってお出迎えの終点だ。いずれも香河二役府首府を長信補佐役府する 寒川(さんがわ)・大角殿[扶風府]を構成するメンバーだ。これだけでも日本歴史に注目する人は卒倒するに違いない。これが遺されているソガ『蘇莫者』正統人間叙事歴史舞台「香河京」だ。

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■ 後漢時代(25〜219)、失われた故国、滅亡秦国土『たい』(台+大里偏)に仏寺「法門寺」が再建され(現・陝西省扶風県)、中国名「武功石」は讃仰し、仏名「焼霊石」という異名をもった。ここに「表裏二面性」が生じ、山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」は、「鯛」(=滅亡秦国土『たい』)つり漁師「浦島太郎」の裏面をもつことになった。スサノオ・恵比須像の竹の釣竿を担ぎ、「鯛」を左脇に抱える像もここにある。その因像は陝西省岐山県南部、『豊都』五丈原(陂陀=long slope=秦の呼び名=顕著例に徳島県美馬市脇町の山彦神社と長野県松本市波田町の梓川川岸を北岸の大宮熱田神社が鎮護)台地の東裾を流れる『石頭河』が「岩破彦」の誕生と性格を揺らんしている。この『石頭河』が「甘橿の岡」東裾を流れる「明日香河(飛鳥川)」と移遷祭祀の水路となる。むろん、「香河(籠)」を構成する五河の一川だ。香川県「香河京」権威筋は完全亡失し、「讃岐」をナゼ「さぬき」と読むのかさえ基因歴史を蒸発させている  






「香河京」浦島太郎は山幸彦サヌカイト武功石「岩破()いわれ彦」と同じ「香SU SU(ささ)の浜」(「大野の丘」の海浜)で誕生。浜は、『倭人』となった姉秦宗女、「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」、従者ら一行が新天地をもとめ、上陸した浜だ。浜は、「紀」の構築では南九州「笠沙の浜」と虚構され、地名「薩摩」名が明治時代に「鹿児島」県名となる元因が「香河京」では解明され、覇者の『簒奪・簒盗』(下克上)の正当化行為の産物、虚構「ウソ」構築があることが知れている。「香河京」ソガ『蘇莫者』遺跡がそれを証明証左するわけ。





■ 600 607 と滅亡した秦国土『たい』(台+大里偏、関中平原)に新しく勃興し、大興城(西安市)主となった隋国の天子よう帝(火+易)に、いつくしみを籠めた親書をする。「日出る処の天子、日没する処の天子に親書」「つつがなきや」と。『たい』は失われた故里大地。魚の「鯛」と間接表現されている。

「あまのはら天子の府」にある日没景観一級地の「屋島」は『倭人』姉秦宗女のかつての居処台地、『豊都』五丈原台地の北端部景観と『ウリ二つ』(とくと、よくご覧あれ)。「屋島」の北西に浮かぶ「えい洲」女木島(鬼が島)島容は『豊都』五丈原台地全体像の縮図景観。さらに、島容は明日香河・桜井市国道165号線北側に「涅槃像」とよこたわり、島の先端(灯台がある)は神武が東征なりて報告する「鳥見山」に連結している。「鳥見」は香川県「香河京」では「富」と遺存


奈良「平城京」の「紀」は 608 内容を女帝推古朝として、真っ向から「隋書」たい国伝と異となる天皇体制を虚構「ウソ」構築し述べる。これを受け、わが国は隋書記述のわが国天子男王は隋書が間違いで、「たい」(人偏+妥)の字は「倭」で統一されていることを知ろう。虚構「ウソ」構築は、ソガ『蘇莫者』の「香河京」の首府街なども盗んだ「大盗賊」構築だ。この問題を解決するべくの、正面から取り組む学者権威は居ない。取り組めるのは「香河京」ソガ『蘇莫者』遺跡を顕正する当会のみだ。奈良「平城京」覇者は、ソガ『蘇莫者』「天皇記」「国記」を『簒奪・簒盗』(下克上)しているのは明白。覇者がナゼ『簒奪・簒盗』(下克上)したのか。「紀」に不思議な追加記事か、と疑問視するほどの珍現象事態が多発。天皇位「天智天皇」死去記事の項だ(761)。隋書記録とは全く異なる構築「紀」の女帝推古朝とともに、「香河京」遺跡をよくご覧あれ。


    



「屋島」の左手、高松市沖合いの「えい洲」(※「えい」は、さんずい+秦の姓)女木島(鬼が島)。ならびに、同島に人工掘削されている洞窟。島容は姉秦宗女のかつての居処斉宮『八米原』のある『豊都』五丈原台地全体像だ。姉の居処、斉宮『八米原』には「雨乞いに籠もる」洞穴「秦家窰(よう)」があった。奈良「平城京」覇者はこの洞穴に南九州日南海岸天然海蝕洞窟をあて、費用をケチっていよう。物語「竹取物語」で工人の日当請求に応えたのは血の出るほどに「ムチ」打つ貴公子姿があろうに。さらに洞窟のナゾについては、「紀」には明日香河「忍坂山(おっさかやま)」雄略天皇の宮「岩坂」あたりの地下に洞窟がある、としていよう。残念ながらいまだ洞窟が「青幡」の「忍坂山」北斜面に発見された、の桜井市ニュースは聞かない。

香川県高松市「屋島」。「屋島」は讃岐山脈「女体山」で仏・薬師如来と鎮護祭祀される『倭(窪)人』姉秦宗女がかつて「雨乞いひ巫女」と職能していた斉宮『八米原』のある『豊都』五丈原(陂陀=long slope)台地北端部景観と「ウリ二つ」。陝西省岐山県「渭水(いすい)」南岸だ(とくとご覧あれ)。これがまた、徳島市「眉山」形状とも「ウリ二つ」。当然これには理由があり、『巽』の井戸の「井戸寺」が南東に延伸されている。徳島市国府町井戸だ。明日香河・桜井市の中枢機関がある『粟殿(おうどの)』と再現され、遥拝されている根源だ。陝西省岐山県五丈原鎮案内板。この五丈原台地の西側ノリ面した(渓谷状)にソガ『蘇莫者』ルーツ「曹家郷」がある。写真では台地ノリ面も映っている。曹家中学との間に「白玉河」(大溝)が北流している。初代天皇神武と即位した山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」が佩びていた『白玉』因だ。奈良「平城京」覇者は、ソガ『蘇莫者』「天皇記」が記していた『白玉』因を全く知らずにいたことを物語る。『倭』発祥「ルーツメッカ」図と「渭水」北岸『たい』(黄土高原、一直線大地 Hill=魚の「鯛」)の図、「岐山(香山)」と関連図。よくご覧ください。『香山』は 1986 明日香河・橿原市「木之本町」で出土した墨書土器片。同市畝傍山北東裾には「大久保町」(香川県「女体山」の「大窪寺」義)が存在。その理由は、神武陵と「廃寺大窪寺」が「不即不離体制」である基因もこの図をご覧になれば瞬時に解けよう。奈良考古学研究所は 2011 晩秋、西安市の西安歴史博物館で「日本考古展」を開催するとき、西140km に実存する『倭』発祥「ルーツメッカ」をご視察されるよう進言したが、進言は残念ながら「無益」の結果に終わった。ソガ『蘇莫者』「天皇記」「国記」よりも、虚構「ウソ」構築の多い「紀」史観が大事であったのであろう。

徳島県吉野川「渭水」中流域北岸、徳島県阿波市市場町北辺の『ソックリ岐山・香山』。現称山名、西が「伊笠山」(乳房形、陝西省岐山県では「西堀山」名)、東が「城王山」(二峰山、「東堀山」)。驚愕のソガ『蘇莫者』歴史資産だ。『ソックリ岐山・香山』の位置は姉秦宗女を祀る讃岐山脈「女体山」のスグ南側。V字形山間を香河二役府から大彦命、従者らが冬至祭用の吉野川「渭水」の『聖水』(み「SU」)を汲み(=「久米(くめ)」の成立因)に吉野川「渭水」河畔まで「エイホウー、エイホー」(姉秦宗女の名)と往還。『気延山』仮託大穴牟遅が赤い灼けた石塊を受け止め死にいたる。それを聞いたカミムスビ(吉野川市の△山「高越山(こうつざん)」)は二人の貝姫を急ぎ派遣し、その乳房の乳で「蘇生転生」させたのが新生「大国主命」。「蘇生転生」した大国主命は貝姫とともに「乾」死者の座、先帝の座、出雲大社に「ホーホケキョ」(法華経)と鳴きながら飛翔して行く。「蘇生転生」図きり絵は歴読 410号から。出雲大社の奥社ソガの社。出雲での大国主命と少名彦名。少名彦名の出自「高越山(こうつざん)」。山はカミムスビ。大彦命一行が「楢(=なら) 街道」を越えて吉野川「渭水」河畔にたどり着く。「聖水」(ソガ『蘇莫者』のみ「SU」)を汲む河畔の南、現・吉野川市の山容。





■ 「紀」がいう 645 「大化の改新」は、首謀無頼の徒・中大兄皇子と、その忠臣、中臣鎌足ら「春日大社」白刃武闘グルの暗殺団が、「香河京」ソガ『蘇莫者』『林天皇』蘇 鹿伏(蘇我入鹿)と次天皇候補田村皇子( 「紀」で34代舒明天皇扱い操作あり )二人を「香河京」「板蓋宮」でペテンにかけ、剣を佩びない素手の二人を斬殺した、『天皇殺し』が真相だった。「香河京」遺跡は「紀」とは全く異となる証左を語り、「皇極四年構造」は全くの虚構「ウソ」構築のもの



「紀」は皇極四年、明日香河「板蓋宮」で「専横大臣」排除の殺害と美談化しているが、「香河京」「板蓋宮」遺跡は、『林天皇』蘇 鹿伏(蘇我入鹿)と田村皇子の斬殺、反逆殺害だったことを語る。「紀」は自己政権に都合よく改ざん史実(虚構「ウソ」構築)を載せたのである。勝者の書のみならず首府街「平木」をはじめ地勢歴史事象まで『簒奪・簒盗』(下克上)。首府街シンボル「鹿」(秦シンボル獣)語源は、ソガ『蘇莫者』の数詞「四」(SU)まで横奪「下克上」したもの。横奪した「鹿」は今日もも、奈良公園で苑遊している。どなたも?疑問符を持たない現実がある。表面化問題とはなっていであろう。ソガ『蘇莫者』天皇位を「専横大臣」位に蹴落としている公認路線ともいえよう。然るがゆえに、女帝推古、女帝皇極、および重祚謀略を企画編纂記述しなければならなかった大窃盗盗賊の図式構図だ。

斬殺された二人の遺体は、三木町「田中」の「田中雷八幡神社」の南、「吉谷」で「龍現古墳」と初葬される(当会断定)。ここからの北に開ける展望は、姉秦宗女の「八」台地「屋島」と、かつての居処、『倭』発祥「ルーツメッカ」『豊都』五丈原台地全体像を縮小した島容が左手に「えい洲」女木島(鬼が島)が浮かぶ。知られざる「 ParmeEn shangri-la 陂陀(はた)」景観だ。なお、島容は明日香河国道165号線北、「味酒」三輪山から東の宇陀市榛原「角柄」まで「涅槃像」と横たわっていることは記した。斬殺された二人の古墳遺体は、今、『林天皇』蘇 鹿伏(蘇我入鹿)が讃岐山田郡初代天皇神武「岩破の池」堤下から飛翔した宝鶏( bouji 高松市十川東町「宝地」)の雛、明日香河「飛鳥寺」の「首塚」に飛び、田村皇子遺体はその死を 641 と「四年」(ソガ『蘇莫者』の数詞「四」(SU)の逆活用) 早められ、舒明天皇扱いしたのは、子の殺人者 murder 中大兄皇子にキズのない正当系譜天智天皇即位の道を虚構で開くため。桜井市国道166号線沿い、雄略天皇の「青幡」忍坂山(おっさかやま)の西裾に「押坂陵」と改修葬し、鎮護寺に「石位寺」ある。安置にはスグレた徳島県「石井」町謀略工作といえよう。桜井市は「桜井」名起源を知らない。奈良「平城京」覇者は、女帝持統の天皇位化のため、女帝推古天皇、女帝皇極天皇、女帝斉明など虚構創設と先べんを拓く。だが、この矛盾が「隋書たい国伝」(たいは人偏+妥)で破られ、「紀」を空中破壊させたのである。「紀」は馬脚をあらわしたわけ。

「大化の改新」を正当化し、殺人首謀者 murder 中大兄皇子をやがて天智天皇と「天皇位」にするための巨大陰謀謀略、スグレた智謀知略ではないか。雄略天皇の明日香河「隠り口」麹カビ育成が「ハセ・る」長谷寺そばで歳八十まで待つ引田部「赤猪子」巫女説話記述は、徳島県板野郡のJR「阿波大宮」駅との歴史環境を見られよ。「板蓋宮」の「板」視界が明瞭に広がる。




東四国「香河京」「あまのはら天子の府」が歴史が忽然と消えながらも、明日香河・飛鳥寺は 588 に創建され、延命遺存した(縁起参照)。「紀」記述の「多足の鳥」「宝鶏の雛飛翔」と、 671 創建とは違うであろうに。およそ百年のズレがあろう。飛鳥寺の塔芯礎に埋納されていた宝物の馬鈴との酷似品が「香河京」西讃「大野の丘」の「母神山古墳群」で出土している。ナゼ歴史性のない「香河京」で出土しているのであろうか。




バス停高松「桜井高校」は、明日香河・桜井市の市名と発展し、市の中枢機関はここ『粟殿(おうどの)』(=徳島県吉野川「渭水」河畔には「驚異の紐帯証左」が連続し、日本版秦始皇帝陵『気延山』などがある)阿波徳島県にある。地名は確実にソガ『蘇莫者』天皇位だから現残存しているといえよう。「史記」の秦本紀、秦始皇本紀の「陝西省岐山県」記載なみ、価値のある「香河京」史料・資料だ。




■ 「香河京」「あまのはら天子の府」の「屋島」に並ぶ「五剣山」は、「い」の語源ルーツ。それは滅亡秦の割符象嵌文字「五十刀」から発祥(左前足の肩に注目)。発祥した「い」は明日香河の東、「ととひ」伊勢神宮の「い」冠詞名となる。伊勢神宮祭神アマテラス大神ヒル女は仏・薬師如来の姉秦宗女の神界祭祀。ヒル女の「ヒル」は『たい』Hi-land、黄土高原一直線大地「Hill」のこと。蛭とも。 「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」『風配地蔵尊』は冬至祭『籠祭』「讃・SU SUn(ささん)」から「スサノオ」派生名となる。「ととひ」伊勢神宮は「香河京」から造営されたもの






明日香河・桜井市の「箸墓古墳」被葬者とされる「倭迹々日百襲姫」は「香河京」水主(みずし、ソガ『蘇莫者』の水管理・灌漑整備体制を示す)神社祭神の移遷祭祀。「ととひ」伊勢神宮の祭神「天照大神ヒル女」は姉秦宗女仏・薬師如来の神界名。ヒル女の「ヒル」漢字は創作国字だが、要は滅亡秦国土『たい』(台+大里偏)の大地、一直線大地「丘」のコンパクト表現「Hill 女」義だ。神宮「荒祭宮」祭神は「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」『風配地蔵尊』のことで、冬至祭「SU SUn」の「SU SU」に重層した「スサノオ」名で活躍する(さらに「恵比須(ソガ『蘇莫者』の「SU(四)」)さんとなる。鯛と竹釣竿をもとう)。徳島県神山町の保食神「大宜都姫」を殺害することは触れた。つまり、過ぎ去る一年、旧年を『鬼籍』に鎮め、宜春苑の「賀正」を迎える迎春正月歳時のこと。歳(年)の輪廻がある。「えい洲」女木島(鬼が島)の「洞窟」も歳時洞窟。後世これが「桃太郎の鬼退治」と顕正説話されている。初代天皇神武・山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」が三木町の海神の宮「ワニカワ神社」で「践祚大嘗祭」即位儀式を挙げるとき、斉王赤玉柘榴石豊玉姫の控え「四丈殿」となる。内宮の斉王控えの殿舎。殿舎は『巽』の隅となる。「高木」は践祚大嘗会殿の「井戸」のそばに生えている杉(ソガ『蘇莫者』の「SU 樹」)の「高木」。明日香河の死者弔いの方位「乾」方角、斑鳩法隆寺の「三室山」そば、発掘知見された「藤の木古墳」から出土した「広帯『岐山』」額帯には「高木」が立つ。杉の木「高木」には水鳥「鵞鳥」、「烏賊(いか)」付随していよう。ここにソガ『蘇莫者』の名「素鵞の社」(出雲大社奥社)がある。広帯額帯の「二山」は「讃岐」の『岐山(香山)』のこと。『岐』にはそういう思想淵源が込められていた。西洋の教会 tower にも秦の「TWIN 」性『岐』(「天柱」)が遺されていよう。「香河京」「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」『風配地蔵尊』こと『風神』(水神)を、ソガ『蘇莫者天皇』を斬殺した殺人鬼天智天皇が死んだ 675 天武天皇(大海人皇子)が斑鳩法隆寺の西、三郷町に『風神』龍田大社、翌年には河合町『水神』広瀬大社と鎮護祭祀。明日香河「甘橿の岡」の方位「乾」(死者の座)の地と新しく鎮護したわけ。




「岐」の twin 性

「ととひ」伊勢神宮外宮の「豊受大神」鎮座については『止由気宮儀式長』(804) の記事がもっとも古く、「天照大神が雄略天皇の夢枕に立って教えられた。それは自分は高天原にあったときに宮処に鎮まることができた。「しかれど吾ひとところのみいませばいと苦し、その上に大御食(おおみけ)も安らかに食べられないから -中略- 豊受大神を迎えてほしい」というお告げであった。-故吉野裕子著「隠された神々」から引用。

三木町「天枝」は「岩破の池」『堤』スグそばだ。 「紀」の雄略天皇はソガ『蘇莫者』歴史では「香河京」三木町「田中」で宮居をして居り、少子部スガルとの滑稽譚はすでに触れた。古文書で「スガル」は「えい洲」女木島(鬼が島)の「えい」があてられている。滑稽譚は、奈良「平城京」覇者藤原不比等が「香河京」ソガ『蘇莫者』歴史を知らなかったため起きた妄想だが、明日香河舞台の話とすれば「これでよい」と覇者は許可を出したのだろう。おかげで「甘橿の岡」から北西に見る「二上山」の山容『岐』思想性格は保存されたのである。上手の手から水(み「SU」)が洩れたのである。これで万葉集冒頭に雄略天皇、舒明天皇および、「香河京」万5などが巻頭部に配列選歌される真因、「香河京」ソガ『蘇莫者』天皇の遺跡がお分かりになろう。






■ 蘇我馬子(聖徳太子、有明天皇、美馬天皇)がいった「大野の丘」は、既製理解の明日香河所在ではなく、今も、「香河京」香川県西讃一帯、観音寺市「大野原町」と確実に現遺存している。権威筋は見て見ぬ振りを繰り返し、史料・資料が実存しても避けて通る(無知蒙昧有様)。指摘の「国宝を超える香河京遺跡の紐帯証左」はムダに流れつづけているわけだ



「大野の丘」は『倭人』姉秦宗女「えい峰(豊)」、「バカ」弟二世皇帝「胡亥(Hu Hai)」『風配地蔵尊』、従者ら一行が上陸した「香SU SU(ささ=御酒(みき))浜」上陸浜の内陸部のこと、香川県西讃だ。「鯛」(滅亡秦国土『たい』)釣り漁師浦島太郎が自生したところだ。明日香河「甘橿の岡」は、『倭』発祥「ルーツメッカ」『豊都』五丈原(陂陀)台地の移遷祭祀地。籠の「竹の内龍者」の「竹の内街道」の始発点。歴史環境の必然移行の「大野の丘」だ。明日香河は『石頭河』位置と同じく、「甘橿の岡」ソガ『蘇莫者』の丘の東裾を流れ、「飛鳥寺」位置は『豊都』五丈原台地を西に遥拝する陝西省「眉県」斉鎮と同じ位置に配置されている。ソガ『蘇莫者』の必然構図だ(『倭』発祥「ルーツメッカ」見取り図をよくよく参照していただきたい)。

今日の香川県三豊市「笠田高校」は、608 隋国使節裴世清一行と会談した男王の「笠田の宮」跡。同校門前には「忌部神社」も鎮座。物語「竹取物語」の本舞台でもある。大野原町の「椀貸古墳」被葬者は「有明天皇」芽子・蘇我馬子(聖徳太子、美馬天皇)とも推量され、同町の寺「萩原寺」は「萩の花」が馴染み、明日香河・宇陀市榛原の「墨坂神社」の「萩原」ともよく似合う。秦の黒色は墨色であろう。「竹取物語」に登場する竹をよろずに使った山幸彦サヌカイト武功石「岩破(いわれ)彦」が乗る「竹籠舟」の表現「子守籠」(秋田県。秋田の忌部)。墨坂神社境内前方の山並みは「香河京」香河二役府間に居並ぶ「三山(SU SUn)」を移遷祭祀したもので、ホントウの「大和三山」存在だ。「大野の丘」の「椀貸古墳」被葬者は明日香河「石舞台」被葬者と兄弟とも推量されているソガ『蘇莫者』の一人(名が知見されればよいのだが)。「積み石塚古墳」は「萩原古墳」(徳島県鳴門市)で弥生末のもの。吉野川「渭水」南岸、徳島市「眉山」姿に失われた故国、陝西省「眉県」台地景観を重ね合わせていた。かくて徳島市国府町の「井戸寺」(巽の井戸)の存在意義や、桜井市『粟殿』の地名意義があるのだが(前掲「眉山」参照)。

「香河京」&「飛鳥・橿原ユネスコ協会」ナビのオピニオン視点位置でもあろう。推古天皇記事の「竹の内街道」は香川県西讃からの始まりがあったわけ。









■ 徳島県阿波『粟殿』の吉野川「渭水(いすい)」は「香河京」の「香河」五川を構成する異国、陝西省「渭水」の転写移遷祭祀の川だった。河口河畔南岸、徳島市「眉山」名は陝西省「渭水」南岸の陝西省「眉県」と「岐山県」南部の転写歴史復元をはじめ、「国宝を超える『紐帯証左』史料」が連続。『紐帯史料』のなかには、明日香河・桜井市『粟殿』で「味酒」三輪山の山主となる「日本版秦始皇帝陵」『気延山』「蘇生転生」もあり、「千金の値」史料を提供している。欠落日本史、ソガ『蘇莫者』天皇位を復元補完する主要史料だ。

「紀」に「専横大臣四代」と蹴落とされたソガ『蘇莫者』の実像、天子の府『粟殿』である。奈良市の「奈良」前身名「香河京」の「楢 街道」「香々美」。高松市峰山山頂「姫塚古墳」から重畳たる「山堆」の上に突き出ている「忘れがたき常念の山容」「岐山」を見る。峰山の「姫塚古墳被葬者」は「祖谷(いや)の山」『岐山』(「天柱山」)を見ていたわけ。ソガ『蘇莫者』蘇我馬子(聖徳太子)は「姫塚古墳被葬者と同じ視線で「祖谷の山容」を見、育った子孫「夏子」だ。明日香河・明日香村「甘橿の岡」から見る橿原市「八」山頂「畝傍山」の興起因。「甘橿の岡」からは「二上山」に向け『香界ライン』がのびている。



「香河京」徳島県『粟殿』は吉野川「渭水」の河口、「ウズ潮」の「海神の宮」「宇豆柱」をはじめ、「乾」出雲大社の発祥源流に触れることになる。あなたもソガ『蘇莫者』正統人間叙事歴史をさかのぼってみませんか。弥生末期の「萩原古墳」(大和の古墳よりも一足早い築造)から南岸徳島市「眉山」を見ましょう。その山容は失われた故国に現存する陝西省「眉県」大地の複写。同県「斉鎮」に倣った驚愕の景観が西にひろがる。





明日香河・桜井市庁舎がある『粟殿』。徳島県阿波『粟殿』吉野川「渭水(いすい)」と姉秦宗女「えい峰(豊)」像。それは陝西省関中平原『たい』を流れる「渭水」の東移遷だ。徳島市市民の山「眉山」。この台地状山容が陝西省眉県「斉鎮」の移遷だった。それには西の「鮎喰川(あくいがわ)」、徳島市『気延山』東向きの「天の石門別(いわとわけ)八倉比売神社」があるからだ。『気延山』西向き石井町の山容は「日本版秦始皇帝陵」。目下『粟殿』住人は誰も関心を寄せてはくれないけれど、石井町役場はかつて造山指揮の詰め所跡であろう。中流域北岸阿波市市場町の「楢 街道」終点。往還路の始点でもある。大彦命従者らはここで「香至」冬至祭用「聖水」(ソガ『蘇莫者』の数詞「四」(SU))を「汲んだ」。ここに仏・姉秦宗女の斉宮『八米原』数詞「八米」を継ぐ、数詞「久米」(「汲め=九米=久米」)がある。今の奈良市の「なら」起源の「楢 街道」十字路。奈良県知事、奈良市市長は「なら」起源を知らないで居られるボンクラ。吉野川「渭水」西端、「祖谷(いや)」の「三嶺(みうね)」。明日香河の「畝傍山」の前身が山頂にある。有明天皇・蘇我馬子(聖徳太子)は高松市峰山の前方後円墳「姫塚積み石塚古墳」から重畳たる山々(=山堆国=邪馬台国)の上に突き出ている「常に思う岐山(香山)」(「天柱山」)を遠望していたソガ『蘇莫者』。祖先古墳群の山だからだ。古墳群のある峰山南麓には明日香河・坂田金剛寺(廃寺)と同名の「坂田寺」が後漢「規矩鏡」破片を出土しているのだが。





■ 奈良「平城京」覇者藤原不比等と「春日大社」白刃武闘団が 710 に『簒奪・簒盗』(下克上)』し、横奪したソガ『蘇莫者』の「香河京」香河二役府首府街 (先史)のむくろ残照遺跡「1302年」(西暦2012)紹介

覇者の主な横奪(『簒奪・簒盗』(下克上))

□ 香河二役府のさざん(SU SUn)花の咲く「香至」冬至祭『籠(香河)祭』「讃・SU SUn(ささん)」の『ささ』(SU SU=三木町の「御酒」・高松市桜井殿舎醸造)は、先史の御酒醸造処。明日香河・「隠り口」の醸造処先鞭歴史。

□ 香河二役府の冠詞「天の原」(三木町天野神社の「あまのはら」)と、客死遣唐使阿倍仲麻呂が残した歌謡「あまのはら ふりさけみれば かすがなる 三笠の山に いでし月かも」は、奈良「平城京」には「三笠の山」となる「三室山(Su SUn)」(三連山、見諸山)は存在しないことから明らかに略奪ではないか。

□ 春日大社東に遥拝される「御蓋山(みかさのやま)」は、三木町△山△豊(十与)「白山」の横奪。「三笠の山」山容の真因は「公渕公園」の「岩破の池」に山影を映す三山「SU SUn」三山(三室山、三諸山)。香河二役府「香至」冬至祭の歳時複合横奪がある。

□ 奈良公園で苑遊する「鹿」(SU・し香)は、「香河京」首府街三木町「鹿庭(かにわ)の横奪。斬殺された田村皇子(奈良須もん、岡本天皇、舒明天皇)の宮居、高松市一宮町田村皇子(舒明天皇)の宮跡「田村神社」も「鹿角(かのつの)」に遺存。鹿は「ケーン」(=乾=死者)と鳴こう。

□ 『倭(窪)人』姉秦宗女「えい峰(豊)」の専用数詞『八』(=eight)は西洋文明以前の秦生成数詞。この「八」の簒奪。645 710 以降の八角形、八角塔、八角墳墓、西大寺の八角塔基壇などの「八」角利用は『簒奪・簒盗』(下克上)覇者にどんな意義があったのか。「八」はソガ『蘇莫者』の思慕数詞「八」だろうに。

□ 初代天皇神武山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」を自己政権用「天孫降臨」にネジ曲げ、南九州に香河二役府の地名を横奪利用。二人の腹心を派遣し、虚構「ウソ」構築づくり。三木町宗像の「赤玉(柘榴石)」歌謡の豊玉姫を「開聞岳」の麓に「枚聞神社」と拉致しニセ歴史作り。母の木花佐久夜姫職能を桜島とその噴煙にと仮託させ、嫁の豊玉姫は宮崎県日南海岸に「人工掘削洞窟」ではなく、天然海蝕洞窟で安上がり解決。

□ 現・鹿児島県名には明治政府も悪乗り地名だ。「鹿児島」は本来、『香河(岩破彦の「籠」)』島義ではないか。ソガ『蘇莫者』の「天皇記」「国記」は焼失することなく、まるまる残存していたことを教唆、示唆する。 □ 「乾」出雲大社「稲佐の浜」で白刃武闘の「国譲り交渉」を神代の代にまでさかのぼり、「香河京」が創造造営した山幸彦サヌカイト武功石「岩破彦」践祚大嘗祭方位「「乾巽軸」摂理を分捕る。それを「国譲り」と「記紀」上代にしのばせる。




知られざる東四国「香河京」の生きているソガ『蘇莫者』正統人間叙事歴史遺跡・日本創生古代史のご案内致します。後世に正しく「玉藻よし」讃岐日本歴史を伝えたい。

『倭』発祥「ルーツメッカ」がご案内できる「香河京」。「香河京」は明日香河の祖(おや)、「乾」出雲大社創造主、「ととひ」伊勢神宮の造営主の「夏子(滅亡秦の裔)」香河二役府。


   風海(Hu Hai) 讃岐古代文化研究会  087-867-3748 主宰三好まで (著作権があります)  東四国「香河京」は「飛鳥・橿原・桜井・宇陀のユネスコ協会」ルーツソース。桜井市は姉秦宗女の「雨乞いひ巫女」の『ひ』意義と文字知らず。


奈良「平城京」覇者藤原不比等は、帰国兄・定慧が先史ソガ『蘇莫者』歴史史実の実在の報告を父とともに聞いた。実在報告は父ら無頼の徒の『簒奪・簒盗』(下克上)大義?が失われることを意味する。この矛盾が広がることを恐れ、死者とした。哀れ兄のむくろ(23歳)だ。白刃武闘の「春日大社」は、「香河京」の『簒奪・簒盗』(下克上)に参加共闘し、覇者はさらに正統人間叙事歴史の年数を "455年" もの過剰採年 する「ミス」を犯し、顧みることのない大窃盗盗賊団グル犯罪(『簒奪・簒盗』(下克上))を正当化。

「香河京」香川県には流刑人人麻呂の絶唱歌がのこされている。「ParmeEn shangri-la 陂陀(はた)」の主人公らに「香河京」観光ナビと役立てたいものだ思考している。

玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ神柄か ここだとおとき 天地(あめつち) 日月とともに 満(た)りゆかむ 神の御面と 継ぎ来る … 流刑人人麻呂の絶唱 万 220