2000年1月2日、萌絵は私たちのもとにやってきました。
そして、その日から私たち家族の戦いは始まりました。

あの日の事は今でも昨日のことのように思い出します。
しかし、戦いは今でも続いています。


西暦1000年代が終わろうとしていました。世間は2000年問題を心配、というよりも少し期待を持って大晦日を迎えていました。

香川県青年の翼で知り合った私たち夫婦に待望の子供ができました。予定日は2000年1月17日。まだまだ日はあるし、年が明けたら名前を考えよう、ちょっと早まって明日(1月1日)生まれたら、新聞に載るかな?なんてことを考えながら、新しい2000年代を期待していました。

恒例の歌合戦が始まり、夜の10時をすぎたころ、萌絵の誕生は始まりました。突然破水した妻を車に乗せ、二年参りに向かう車の中を抜け、静かな高松赤十字病院の産婦人科病棟に到着した僕は、実は半信半疑でした。「話がうますぎる。ミレニアム1月1日ベビーなんて。早く帰って小林幸子を見なくちゃ!」

診察の結果、まだ早いと言われ帰宅した私たちはなんとか小林幸子にも間に合い、全部期待はずれと笑いながら新年を迎えました。しかし、朝4時、妻にたたき起こされ、寝ぼけ頭のまま、車の少ない夜明けの中央通りを、陣痛が5分間隔になった妻を乗せ、ほんの5時間前に後にした病棟に着いたとき、すでに報道陣は2000年最初の(高松赤十字病院での)赤ちゃんの誕生を取材するため、スタンバイしていました。「先を越されたか!」

取材が終わって帰る記者の人にお菓子をもらい、再び静かになった待合室でうとうとしていると、診察室から出てきた看護婦さんに、妻の入院を告げられました。僕は、実はうれしくて、しかも1月1日生まれを確信して、朝が来て、家族に電話し、2000年問題対策で出勤中の会社に電話して、・・・・・・その後の運命を想像だにしなかった・・・。



萌絵の病気  

 

無脾症候群。先天性心疾患の中でも重症。           

先天的に脾臓が欠損。心臓が右より。複雑心奇形を合併。

 

複雑心奇形の状態  

 

単心房・単心室・肺動脈狭窄・その他。

 

症状       

 

心臓が1つの袋であり、心臓内で静脈流が動脈流と混ざり合うため 酸素が欠乏しチアノーゼをおこす。

肺血管の発育が不十分。

 

治療計画      

 

生後2ヶ月で鎖骨下動脈と肺静脈を直径4mmのゴアテックス製人工血管で結ぶ「シャント手術」を受ける。これによりチアノーゼを軽減し、肺血管の発育を促す。

 

生後10ヶ月でヘミフォンタン手術および肺動脈狭窄部拡張手術を受ける。これにより心臓の負担を減らすとともに、最終目的のフォンタン手術の成功率を上げる。

 

ここまでが現時点(10月19日)で終了。今後、約2歳の時にフォンタン手術を受ける予定。

 

手術の目的     

 

心臓を正常な状態に再形成する技術は今のところ無く、心臓から出 る血管のつなぎ替えにより、静脈流と動脈流を完全に分け、血中酸素濃度をあげチアノーゼを解消するとともに、心臓の負担を減らし、日常生活を送ることができるようにする。

 

手術を受けた病院  

 

香川小児病院(香川県善通寺市)

 

 

平成12年10月19日(木)に2回目の手術である「ヘミフォンタン手術」が行われ成功しました。

 

09/06

カテーテル検査手術。9月2日〜9月8日まで入院。

カテーテル検査の後、医師より現状説明あり。手術10月17日火曜日に決定。

09/12

火曜日早朝、突然発熱。香川小児病院に連れて行くと即入院。カテーテル検査手術に伴う感染症かと大騒ぎ。検査の結果、突発性発疹とわかる。1週間で退院。手術は予定どおりと決定。

10/12

手術のための入院開始。ところが、急患が入り10月17日に手術が必要なので、10月19日に変更依頼あり、応諾する。

10/13

インフォームドコンセントを受ける。約30分のビデオを見た後、執刀医より説明を受ける。

ビデオも医師からの説明も厳しい内容が含まれている。最悪の場合の説明も受ける。死亡率は低くはない。

10/19

手術当日

AM 12:00

固形物の絶食開始(水分可)。空腹で怒らないかと心配したが、思ったよりよく眠る。

4:00

萌絵起床。眠らないので我々も起きる。

7:00

水分も禁止。直前にポカリスエットを飲ませようとしたがあまり欲しがらず。9:00までもつか心配。

8:50

眠り薬を飲ませる。のどが渇いたのか、大泣き。抱っこしながら眠るのを待つ。

9:10

眠る。

9:50

 

 

看護婦さんより手術室入室時間が来たことを告げられる。眠ったままの薄青の術衣に着替えた萌絵を妻が抱き、病室より約10m離れた手術室へ歩いて向かう。妻はこのまま手術まで抱いて行くことになっていた。私は手術室の前で「絶対また合えるさ」と祈りながら、閉まりつつある手術室の銀色の扉を見つめていた。

 

 

つづく