こころのお話

新聞・テレビからの話題

・神戸須磨区の事件について

 最初からハードな話題を持ってきてしまいましたが、 事件がここにきて意外な展開になってきています。こころに焦点をあてる場合、 やはりとりあげたいと思います。
 そこで断わっておきたいのは、少年はまだ容疑者であるということと、新聞やテレビの放送を信用するという仮定で、以下の文を続けます。


・逮捕された少年のこころについて
容疑者が逮捕された...。その第一報をニュース速報でみた時、まず、年齢は?と考えた。 続いて、また速報。14歳の中学生。私にとっても予想を越える若さであった。

・その1“プロファイリング”

 逮捕前、ワイドショーなどで犯人像の特定がなされていたときに、さまざまな憶測が流れた。 そのころ有閑マダムのような生活をしていた私はワイドショーの鬼と化し、 さまざまな専門家の意見を手がかりに自分なりの犯人像を描いていたのだ。
ただ、そのときから一番納得でき、そして事実に近かったのが、ロバート.K.レスラー氏(by.ザ・ワ〜イド)のプロファイリングであった。
 まず、早い時点から、・犯人は若い(10代から20代前半)男性、と推定したことである。30代くらいの不審な男性の目撃情報が飛び交う中、情報の少ないはずのアメリカで、彼だけが10代の可能性を示唆していたのである。続いて、単独犯行である。これも、数多くの学者が、単独では無理だと予測し複数犯の可能性を唱えはじめる中で、一貫した意見であった。
また、挑戦状が送られてきたときに、レスラー氏は「この犯人は殺すこと自体を目的としている」と語り「犯人の次の目的は捕まること」だと推測した。この場合の捕まりたいという心理とは、捕まって自分のしてきたことをしゃべりたい、みんなに知らせたいという欲求のことである。これも、その後の取り調べの状態から察するに、当たっていたと考えられる。犯人の彼は、捕まる恐怖よりも、自分の存在や行動をアピールしたいという欲求が勝ってきていたのではないだろうか。
 これらのことから私が感じたことは、プロファイリングという、統計に基づく心理学がいかに科学として有効か、そしてアメリカの統計が日本でも通用するようになりつつあるのだなぁ、ということであった。(話は変わって余談であるが、実験的な心理学では100回中、95回以上の確率がなければ有意に差があるとは言えない。世間一般の感覚よりも厳密な確率なのである。)
 レスラー氏は、個人的な感覚で犯人像を特定していたわけではない、あくまでも蓄積された過去のデータと照合してはじき出された結果が、事実に最も近い犯人像を描いていた、ということになるのである。そういう意味で、これまでのような怨恨や金銭殺人とは別に、異常無差別殺人(事件)対策として、日本用のプロファイルを蓄積させていく必要性とその有効性を感じた事件でもあった。(97.8.3)



・その2“三つ子の魂?”

 今回の事件では、当初、学校教育が問題ではないか...という声があがっていた。もちろん、学校への復讐を書いた挑戦状から推測されうることであった。しかし、調査が進むにつれ、いじめや体罰といったステレオタイプの問題は、あったとは認められず、今回の事件の直接原因ではないとの見方が主流となっている。そして次に上がるのが家庭教育であった。こちらのほうも、幼児虐待等があったわけでもなさそうで、ごく普通の家庭と報じられ、そうなると、この少年が生まれ持った資質におうところが大きいと考えられていくのも自然であろう。現に、少年の精神鑑定が進められているところである。しかし、実際、現在の少年を作り出した「犯人」は「一人(ひとつ)」ではないだろうし、心のタイミングもあっただろう。ぜひ丁寧な調査で、その複雑な流れを捉えて行ってもらいたいと、願っている。

 さて、今回のタイトル、三つ子の魂...であるが、これは先日、教育本のセールスマンが、2歳児のお母さんに1時間かけて本の良さをアピールしているのをぼんやり聞いているうちに思いついたことであった。諺の意味は、幼いときの性質は大人になっても変わらない、ということであるが、これも実は二つの捉え方ができるのではないだろうか。先の事件でいうなら、一つはこの諺のとおり、幼いときの性質は大人になっても変わらない、つまり裏を返せば、生まれた時から現在に至る要素を持っていた...という事をあらわしているかもしれない。そしてもう一つは、性質というよりも、3歳くらいまでに蓄積された情報が、その後の人生の方向をある程度、制限するのかもしれない、ということである。
 そもそも“選択”というものは、比較によってしかなされないものである。物事の善悪、自分の好き嫌いなどは、自分自身のなかになんらかの“ものさし”が存在しなければ計ったり、選択したりできないのである。さて、人間はいったいいつ頃から“ものさし”を持ちはじめるのだろうか...。確かなのは人生の初期の経験は、その子の“世界”のほとんどを占拠し、その子の最初のものさし(考え方の土台)となる、ということではないだろうか。
 ここからは私見になるが、数年前の猟奇事件の時も、今回もホラービデオが一度は槍玉に上がった。私は当初、ビデオ自体が問題というよりは、見た後のフォローとか、結局は現実の人間関係の方が問題だと思っていた。基本的な意見は変わっていないが、ホラービデオを見る対象が子供となると、もしかしたら今(子供時代に)与えなくてもいい情報なのかもしれない、と思いはじめている。上の理屈で考えるなら、真っ白なキャンバスに起点として描かれたものがホラービデオであり、その子の世界のほとんどをホラービデオが占めることになりかねないのではないだろうか。その後、その子はその起点と比較しながら情報を整理していくかもしれない。もっとも、これは極論かもしれないが、人生初期の経験は、いい年した(子供のころの経験が覆い隠されるほど経験を増やした)大人が頭で考える以上に、重要なものなのかもしれない、そう考える今日このごろなのであった。(逆に、さらにいい年になると、子供の頃の自分にだんだん戻っていく気もする。もしかして、これも考えようによっては三つ子の魂...といえるかもしれない。) 
 三つ子の魂百まで、という諺は、こうやって文章を書き進めるあいだにも事件とも絡まったいろいろな示唆を思い起こさせてくれ、予想していた文章構成からはみ出してしまった。推敲も不十分なので、さらに読みにくい仕上がりとなってしまったことをおわびして、“その2”を終えることにする。 (97.8.10)

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犯罪心理学(神戸小6殺人事件、容疑者は14歳!!)
突然ですが、この事件について詳しい考察をしている大学関係のページです。興味のある方はどうぞ。また、今はダイアナさん関連の考察も行われています。


ちょっとお気楽、パーソナルな話題

・感情って難しい

 先日、わが家(店)の看板に車が激突、車と看板とついでにとなりの電柱が大破しました。居眠り運転で対抗車線を超えての激突でしたが、奇蹟的に、運転手は軽い怪我ですんだのが不幸中の幸いと思えました。ところで、その後、すぐに本人が果物かごなどを手に、おわびにいらっしゃいました。そして、一通り謝ったあと、また菓子おりなどを手に、看板の立て直しとまたまたおわびにいらっしゃいました。そして、1週間もしないうちに新しい看板ができていました。

 じつは、こういう一見過度に思えるおわびは、事故の時は常識のようです。それは、事故の相手と感情的にもめない為なのです。相手がそこまでしなくてもいいのに...と思うくらい謝ったり、手土産を持参するのは、誠意を伝える手段なのかもしれません。そして、謝る側の誠意が伝われば、事後処理は案外簡単に進みます。では、ここで、すこし想像力を膨らませてください。もし、いつまでたっても謝りに来ない、お金で話が済むことだという態度が見えた、面倒くさそうだ、なんて対応だったらどうでしょう。わが家の場合は器物で済みましたが、人身事故だったらどうだったでしょう。些細なことで、感情がもつれるのが手にとるように感じられるのではないでしょうか。もつれはじめたら、なかなかほどけません。今さらお菓子もってきたぐらいでどうにかなると思わないで!!とか、何をしたって許してあげるものか、といきりたってしまうのではないでしょうか。

 おおむね事故後の対応は、相手の感情に配慮した行動です。それは、一見、くどく、周り道のように思われます。第一合理的ではありません。(なかには合理的な対応をして、話をこじらせてしまう方もいらっゃいますが...、) どうも感情とは、合理的ではないようです。

 事故対応は、極端な例なので、多くの方が、なんとなく共感できる、と感じていただけると思います。ですが、日常の些細ないざこざも、理性の後ろで見え隠れする、感情がもつれているように思えてしかたがないのです。そして、当の本人達は感情がもつれていることに気付いておらず、あくまで理性で対抗してしまいます。むしろ、理性と言う仮面の下で感情的になっている自分に気付いていないと言えるかもしれません。

 もつれてしまった感情を解きほぐすのは、またさらに難しい題材ですので、(いつかあるはずの)次回以降においておきます。しかし、いずれにしても、感情というものは、単純な数式で答えが出るようなものではなく、一見遠回りに見える道が一番の近道であったり、また、スマートに答えを出せるものではないようです。感情は“急がば回れ”、そして、実際に時間や心のエネルギーをじっくりかけるべきものなのかもしれませんね。(97.7.22)



・職場のはんこ

 見習い修行中の私の仕事は、実は事務がほとんどです。なかでも、はんこは1日100回くらい押しています。このはんこというものを上手に押すのにもなかなか技術がいるもので、すれたり、ちょんぎれたり、悪戦苦闘の毎日です(^^;)。
 さて、そんな状態ですので、自分の名前のはんこを朱肉で押すのにも一苦労。そこで、社会人の必須アイテム、シャチ○タを買おう...とちょっとうれしい気分で文房具屋へでかけました。
 ケースをくるくる回し、自分の名字をみつけたのはいいのですが、字体が気に入らないのです。一般的にシャチ○タは楷書のものが多いのは知っていましたが、今の気分にそぐわないのです。そこで、となりのケースを回して見ると古印体の名字があるではないですか。値段はちょっと高いけど、(男のなんとか...って書いてあるけどなんのことだか?...)「まっ、いいや」、とインスピレーションのみで、このはんこを購入したのでした。そして、次の日、遂にはんこをわくわくしながら押して見ました。字体はなかなかいいようです。が、な〜んか、へんな感覚が残りました。
 はて?と思いながら、しばらく押し続けて行くうちに、その理由がわかりました。なんと、私のはんこのサイズが所長のはんこと同じサイズで、以下の次長、副主幹クラス(つまり私の上司達)のはんこは一回り小さいものだったのです。私は、上司のはんこの横にでーんと一回り大きいはんこを押すうちに、なんか妙な感覚になってきたのでした。
 最初に思ったことは、自分が日本人らしいなぁ...ということです。多分今までの経験で、地位の高いものがより大きなはんこを押す、という感覚が身に染み着いていたのでしょう。事実、女性よりは男性のはんこが大きいこともありますし、その社会のトップほど大きいはんこを押すものです。私にしみついたそれらの感覚が、押し心地の悪さを作り出していたようでした。
 次に考えたのが、このはんこを選んだ私の行動がいかにも“私らしい”ということで、私は思わず苦笑してしまいました。というのも、染み着いた感覚があるので、知的に冷静に判断していれば、その場で普通サイズのはんこを選んだ可能性もあるのです。ですが、私はちょっと大きいけど、字体もきれいだし、これがいい、と選びました。(一回り大きい、男性向け、という情報は目には映っていたのです。でもそれを、必要な情報として、私の頭は処理しなかったのです。^^;)実はこういう行動は、これまで私が何度も繰り返してきたパターンなのでした。
 気を張り詰めていれば、何事もそつなく人並みにこなす人間だと、自分の事を思っています。でもそれだと他者との距離が縮まらないのです。そんな時、意識しているつもりはないのに、よくこういう(ささいなミスに見える)行動をとっている自分に、後になって気付くのです。見方によれば、今回の選択は小さなミスにも見えます。ですが相手の出方を探る材料にもなります。話題のきっかけにもなり、慣れていない人と親密になる始まりにもなります。これは、きっと私が自然に身につけてきた独自の知恵なのかもしれません。(もちろん、些細な失敗によって足元を見られ、対人関係が悪くなったこともありますが、こういう事を鬼の首でも取ったように大騒ぎする人物は、他の人ともうまくいっていない場合が多いようにも思います。)いずれにしても、意識してやっているつもりは全くないので、私としては苦笑するしかないのです。
 今回のはんこについて、職場の誰からも注意されてはいません。何とも思っていない人もいるようです。私は、「字体で選んだら、なんか、はんこが大きかったですねぇ〜。」「あはははは」と大笑いして、終わらせてしまいました(^^;)。 「まっ、いいか、なんかあったときは、そんときはそんときだ」と、染み着いた感覚に言い聞かせて、今日も上司のとなりに、大きなはんこを押しています。 (97.8.10)


・お散歩コース


 私は、家族のもとを離れて一人暮しをしていますが、たまに家に帰ったときのしかもごくたまに、愛犬ベルを散歩に連れて行ったりします。そうして散歩をさせていると、当然彼女のいつもの散歩コースとは違う道を通ることもあるのですが、そんな時大概、私は右、ベルは左で綱引き状態、とか、クロスプレーでがっちゃんこ状態になります。
 それはウチの犬に限ったことではなく、案外簡単に、主人の気紛れで散歩コースが変わった瞬間、首輪がしまって「ぐぇっ」となっている犬に出会います。その後犬の方はたいてい主人に従って散歩を続けているようです。
 こんな犬達の姿をみたとき感じることが、「あぁ、犬も自分のコース(道)ができ上がっていたんだ..」ということなのです。猫もそうです。なんか、いつも変な所を歩いているなぁ、と思っていたのですが、そこが彼(?)のナワバリ巡回コースなのだと気付いて、納得しました。経験を積み重ねていく中で、「効率のよい、あるパターン」を作り上げ、それを繰り返すことが、彼等にも備わっているんだ...、と気付けば当り前のことなんですが、私には「はっ」とさせられたことでした。
 というのも、私たちも、気付いていないところで、“「効率のよい、あるパターン」を作り上げ、それをそのうち意識せずに繰り返す”行動をとっている、ということを再確認したからなのです。
 犬達と同じ様な例が私にもあります。昔、友達と大学まで一緒に行ったとき、同じ所から同じ目的地を目指しているにも関わらず、お互いが自分自身の通学路を持っていたため、交差点でスパッと別れてしまい、お互いに「相手が消えた?!」思って、その後大笑いしたのを思い出します。こんな事は、しょっちゅうありますし、それでもめるようなこともありません。「あれが誰々さんのコース(道)なのか」と気付くこと、そしてもう一つ、「自分にも、もう意識しないくらいにコース(道)ができあがっていたんだ」と気付くことがある程度です。ですが、この「意識しないほどでき上がった自分のコース(道)」というのは、他の場面ではけっこう厄介なものなのです。
 少し想像力を膨らませて見ましょう。仕事やサークル、業界意識などです。その仕事、そこのルールに始めて触れたときは、そのルールをいかに自分に組み込んで行くか、意識していたと思います。そしてだんだん自分自身の道を作り上げていく訳ですが、効率が上がり、行動がパターン化されてくると、自動的にそのように動くようになり、全く意識せずに、その行動をとるようになります。そしてその人物の頭には、その行動が「正しい行動」として確信されています。そうやってパターンが染み着いた中堅になった頃、「正しい行動」をとらない、とれない人物に出会い、いらいらを募らせてしまうのです。他人の仕事態度が気に食わない、と思っている時は、自分自身の中のルールに反している場合が多いように思います。お互いがお互いに気に食わない思って、それ以上考えを深めない場合は、歩み寄ることはないでしょう。なかには、「その態度はいけない」と思い、親切心で相手に注意をする人もいるでしょう。でも、これではほとんどのいざこざは解決しません。
 では、どうすればいいのでしょうか。というよりも、こういう場合でも、まずは「あれが誰々さんのコース(道)なのか」と気付くこと、そしてもう一つ、「自分にも、もう意識しないくらいにコース(道)ができあがっていたんだ」と“気付く”ことから始まるのではないでしょうか。そこに一旦立ち戻ってから、今、自分が立っている(考え方の)位置を見直してみてはいかがでしょうか。

 犬を飼っていらっしゃる方は、なんかの拍子にいつもの散歩コースを外れたときに、愛犬を見て、そして、犬を飼っていない方も、他の犬が散歩で角を曲がる姿を見て、ふっと「自分のでき上がっている道(思い込み)」に思いを巡らせてみてはいかがでしょう...。 (9710.6)



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