簡単なごあいさつでございます


毎度吾兵衛へ、ご来店頂きまして、誠に有り難う御座います。

いきなりむさ苦しい顔ですみません。
名前は 石川 太郎左右衛門吾兵衛 と申します
年は1454才になったばかりです

   すみません、嘘をつきました。




店主の自己紹介でございます


 吾兵衛を始めたのは、一昔前の話です。
15歳から料理人の修行を、五郷渓温泉を皮切りにスタート
 将来このホテルで、お礼奉公を出来る事、そしてその後、自分のお店を持つ事が、そのころの最大の願いでしたが
一時期、栄華を極めたその建物も、 残念です、今はもう廃屋になってしまいました。

その後、1999.6月にホタルを見に行くと建物は消えていました。

淋しいですね。



吾兵衛の名前もその昔、全盛の五郷渓温泉、華やかりし頃、追い回しの 私を、(同期の3羽カラス)
姓が石川と言うことで、五右衛門とか吾兵衛とか呼ばれておりまして、 そのころ歯痒かった呼び名も、懐かしく有り難く、沢山の先輩の お陰で、今の私があることに感謝し、そして命名致しました。
たぶん、そんなことはないだろう、当時の先輩諸氏、大雪で何日も停電した夜、(写真は私)
トイレが使えず裏庭で用をたしていて、 熊に間違えられた宮崎県の貴島さん、五郷ダムで釣り上げた食用蛙や、蝮を平気で捌いてくれた広島の工藤さん、 濡れ布巾を顔にめがける宇和島の中川国勝さん、優しく教えてくれた茨城県の小野寺さん、訛ってましたね、「おじの、じんご」

とか、
このページを見かけましたら、oonogenjin@niji.netまでメール下さい。


ここ五郷渓温泉では約1年半お世話になりましたが、沢山の思い出が有ります。

当時はバスが第一の交通手段で、観音寺駅まで30〜40分掛かって居たのでは無かったでしょうか。 ワタシはいつも大野原の辻までですから、15分くらいだったと思います。
休みは不定期で、1ヶ月に1度の時もあれば3ヶ月に1度の時もある、と言う状態で毎週お休みを戴くと言うような事は無かったと思います。
と言うのも、ワタシは新米で、ついこの間までボンボンの中学生をしていた身、世間のことも料理の事も、何も知りません。
早く職場に慣れて、仕事も速く覚えろ! の親心だったのでしょう。

そのころ、高松市出身の小林君と、愛媛県宇摩郡出身の野村君が高校卒で後から入ってきました。
サスガに彼らは18歳、ワタシより3歳年上なだけに全ての理解力が違うんですね。
ウロウロしているワタシをよそ目に、技術は特に変わらないと思いますが、知識的な事はドンドン吸収しているようでした。
このころ五郷渓温泉は、まだまだ華やかな時代で、従業員も沢山居ましたし、従業員食堂が有りました。
ワタシと言えば、その二人から昼寝の時に優しく毛布を掛けて呉れたりして「あー、優しい人たちだな」とか思いながら、ゆっくり昼寝から目覚めると、なななんと、給食のおばさんに頼み込んで、従業員のおかずに出し巻き卵の練習をしていたんですね。

この気の付き方が、18歳になるとまるで違うんですね。
しかし負けたくない、勿論次の日はワタシもライバル意識丸出しで、おばさんにお願いして出し巻き卵の練習をさせて貰いました。

毎朝6:00には、朝食準備のため先輩達が競争の様に、地下にあったボイラー室隣のウルサイ部屋から飛び出して行きます。
ワタシはと言うと、起こされないと起きない、半身起きあがってもまた布団に倒れると言う、まるで中学生が抜けて居ない状態です。

朝食には毎日出し巻き卵を焼かないといけません。
卵を割るのにも片手で1個、両手で2個同時に割り続けて、毎日200個くらいは使って居たと思います。
その為に出し巻き卵を焼く技術は、大根のケンと並んで必須でした。

最初はガーゼをA4用紙くらいに切り、これを水で湿らせ卵に見立てて練習します。
いつの頃から出来るようになったか覚えて無いのですが、ウルサイ先輩達は、ワタシ達にその出番を与えるヒマは無かったと思います。
だから練習するとすれば、従業員のおかずだったんですね。
優しいじゃないですか、ボケーッとしているワタシに、こういうショック療法的なテクニックでやり方を教えるんですから。

朝食出しが終わると自分たちの食事時間で、調理場の盛り付け台の両側に急いでパイプ椅子を並べ、速やかに準備しないと、また「早よせんかー!」と叱られます。
これからがまたスゴイ時間で、ワタシはゆっくりご飯など食べる時間は有りません。
何故かというと、多いときで12名、少ないときで8名のご飯のお代わりなどをするわけで、それはそれは忙しい一瞬でした。
15歳ですからね、そうそう目から鼻に抜けるような頭の切り替えは出来ません。
どうしてもトロ臭く、黙って手を突き出されるまで「お代わり」のタイミングが読めず、暫くはオロオロしてたと思います。
慣れて来れば、あの先輩はこのくらいの時間でお代わりが出てくるとか、加減が判り始めますから、先に立ち上がって、「お代わりしましょうか?」と聞くわけです。
ペースが掴めて、自分も食事にありつくことが出来る様になったのは、少し時間があったかも知れないです。

仕込みが終わり、昼ご飯を食べて昼の休憩時間になるのは、13:00頃だったでしょうか。
この時間は、昼寝をする者も居れば、庭でキャッチボールをする者もいるという、それぞれゆっくりした時間です。

山の緑が鮮やかな季節になると、毎日昼の休憩時間に会敷き葉を取りに行きます。
会敷き葉というのは、読んで地のごとく料理の下に敷く葉ですが、必ず使います。
それはその時期に合った葉が料理には良く映り、一層引き立てる大事な脇役ですね。

これもまた、自主的に行こうとしているのではなく、「仕事で役に立たない新人が、みんなと同じように昼寝をするな!」と、プレッシャーを掛けられ洗脳されていますので、夢遊病者のように山に入る訳です。
実際眠くて仕方が無いのですが、私が専任隊長ですから、誰も行きません。
会敷き葉が無いと、これまたきつく、ののしられます。

ホテル横の細い川沿に、奥へ続く道があり、そこは大きな桑の木があったりして薄暗く、やけに緊張するところです。
暫く曲がった山道を歩くと明るく開け、時折聞こえるウグイスの声とか、川のせせらぎ、笹の擦れ合う音とかが全てを忘れさるほどの、心地よさを与えて呉れます。
まだまだこの辺りでは何も取らず、眠気も忘れ誘われるようにドンドン奥へ、上へと行きます。

山桜が咲く頃などは最高の時期で、小高い山の頂上に立てば、爽やかな風が下から吹き上げ、何とも言えぬ開放感です。
一人「ヤッホーー!」とかやって、自分で照れたりなんかしたりして。

15:30頃迄には帰り、誰よりも早く調理場に居なければいけないし、すぐ使えるように切り揃えて準備もしておかなければいけません。
帰り道々、若葉を取りながら、山ウドのような思わぬ戦利品に一人喜びながら、時には蛇の「ガサッ」と言う音に怯えたり、山へ入るといつも新鮮でした。
夕方から宿泊客の夕食準備に入り、それはまた忙しくて、何が起きているのか、何をしているのかも判らない一瞬です。
私は何も出来ないから、ほぼ正方形の調理場の隅にある洗い場で、鍋のケツ磨きばかりです。
それもピカピカにしないと叱られ、当時まだまだタワシの良いのは無く、亀の子タワシに墓石の切りカスの石粉をまぶし付けて擦り倒します。
大変なんですよ、コレ。
煮方が(小野さんだった、忘れないウチに記録しておこう)珠に意地悪をして、鍋を空焚きし、色の変わったのを黙ってポンと入れたりします。
それを知らずに触ると、当然ながらヤケドをするわけですが、水に濡れている手ですから「オッ?熱い!」ですね。
いくらトロくさい私でも次からは用心深くなり、2度は同じ目に遭いませんよ。
それでも煮方は「同じ失敗は2度するな」とか「これも、一つの教訓だ」とか真っ当な理由を付けて、教えて呉れましたが、本当に教えるつもりだったんでしょうかね?
時には優しく鍋の底に「味見をしろよ」と、言う意味の出し汁を残して居て呉れたりもしましたが。

この頃怖い筆頭の中川さんが居ました、怖かったですねぇ。
後ろ向きで鍋を洗っている私に「コラーッ!イシカワっ!」と声を掛け、振り向いた私の顔をめがけて濡れ布巾をぶつけるんですよ。
ホントに頭に来てしまいますが、私にもイケナイところがあるんですね。
それは忙しい最中に、鍋のケツ磨きをしていないで、盛り付けの仕方を見て、次から出来るように成れ!と言うことなんです。
兎に角一日中こういう感じで、毎日仕込みの最中にトイレでひとしきり泣いて、部屋の掃除をしながら襖を蹴飛ばし穴だらけにして鬱憤を晴らしていました。

この頃に「立板」で、その後付いて廻り、仲人もお世話になった師匠の峰さんがいまして、「ゴヘイ!ゴヘイ!」とよくからかわれました。 でもこの職業を辞めようとは考えた事は無かったです。
それは、卒業式の2日後に勤める前日、母親から、「辛いと言って帰ってきても、お前の帰る家はないぞ!」「仕事がキツイと泣き言を言って帰っても家の敷居は踏ませない!」と言われた言葉よりも、自分で選んだ道、そして何よりも中学卒と言うのが一番の引け目で、同年大野原中学校卒業の内、進学しなかったのは私を含めて2名だと聞いて居ましたので、なんの資格もない子どもだし、中卒でどこが雇ってくれる?
「この道で行くんだ!」 と当時の日記にも「絶対に辞めない」と何度も書いた覚えがあります。
先輩達に読まれた節もあり、それ故に強烈な仕込まれ方をしたかも知れません。

そのキツイ先輩達の年齢を知り、「オレはお前らの歳に成ったときには必ず越えて居てやる!」と言うのが一番大きな原動力だったのは間違い無いです。
コレはその後も何かの節目に、エンジンのセルモーターの役目を果たして呉れています。

仕事が終わるのは、夜19:00頃で、先ずオヤジが「ワシは上がるぞ」と調理場から出ていき、それから片付けです。
それぞれの責任範囲と言うか、技術に応じたランクがあり、ワタシのような見習いは、「追い回し」と呼ばれます。
順に、「盛り付け」「脇板」「向板」「焼き場」「油場」「脇鍋」「煮方」「立て板」「真」等々とあり、他にも「盛り真」とか、まだあるようですが、大体このくらいで、煮方は10年以上の経験者でなければ難しい様です。

立て板ともなれば、いつでも料理長でいける、実力の備わった35歳以上の人しかなれません。
この差は年齢に関係なく、ハッキリと上下関係があります。
だから、年上だから仕事は上位とは限らず、年功序列はありません。
こういう部分は今見直されて居る実力主義を、昔から変わらず制度として持っている職人の世界ですね。

もう少し仕事の分担に付いて補足しておけば

追い回し:

見習いのことで、先輩から「あれ持ってこい」「これやっとけ」とか雑用全て受けるのが仕事で、ワタシの場合は氷の冷蔵庫でのツマものの管理(傷み、在庫確認、氷の補充)も任されて居ました。

盛り付け:

主に盛り付け担当で、最初の頃は見本を盛って貰い、それを手本に盛りつけますが、自分で盛り付けが出来るようになれば見本を作って、真にチェックして貰います。
この頃には、その地位に甘んじて居てはダメで、いつでも脇板が出来るよう時々向板の手伝いをしておきます。

脇板:ワキイタ

盛り付けを卒業して、向板見習いで、魚、野菜の扱いにもまだ不安があり、向板の補佐をしながら、段取りの勉強をします。

向板:ムコイタ

魚、野菜の扱いに精通していて、大半の処理に問題はありません。既に献立は理解出来て、煮方に回す段取りをします。
非常に重要な地位になっていて、その日の仕事がスムースに行くかどうかは向板に掛かっていると言っても過言では無く、この地位から職人として扱って呉れます。ここまで最短5年くらいです。

焼き場:ヤキバ

どのような品物が来ようが、色、火の通り具合など完璧に仕上げ無ければいけません。

比較的楽な担当場所で修行の中では小休止的なところです。ですから、この担当は置かないところもあり、煮方が兼務する事もあります。しかし仕事はかなり難しいところです。

油場:アブラバ

コレは油物全般ですが、コレも煮方が兼務する事が多い部署です。

脇鍋:ワキナベ

煮方の補佐が仕事で、先に出汁を引いたり、味を付けたら良いように段取りをしながら煮方を勉強しています。ほぼ煮方の仕事は出来ますが、上と下との調整役迄は出来ません。

煮方:ニカタ

この地位になると、追廻のワタシから見ると雲上人の感があり、かけ離れています。
勿論味付け全般に問題はないですが、味付けしたモノは全て真にお伺いを立てます。
こういう実務上の仕事は出来て当たり前で、プラス中間管理職的な上と下との緩衝役を持ち、人間的にも成長していなければダメです。

立板:タテイタ

真の補佐役で、いつでも一本立ち出来るだけの実力を備えて居ます。

真:シン 

まさに芯であり、花形です。

このようなランクがあり、最初の手ほどきを受けるオヤジやお店は、その後の運命に大きく関わりがあります。

片づけは下の者が上の者の持ち場を手伝い、上の者から順番に調理場を出ていきます。
ワタシは片付けもしますが、オヤジが風呂に行けば先輩に即されて背中を流しに行き、 みんなが寝るまで起きていて、布団を敷かなければいけないし、朝も布団を上げて畳の拭き掃除、オヤジの小さい机の拭き掃除と、ほんとに気が抜ける時間はありません。
それでも小豆島出身の先輩、石井光一郎さんはオヤジのパンツ、股引まで洗って居たそうで、ワタシはまだ加減されて居たそうです。

それにしても、先輩達は気力充分ですね。
大体毎日、日付が変わる頃まで、部屋の真ん中に座布団をひいて花札賭博です。
ワタシはと言うと、その間が自分の練習の時間で、毎晩のように大根の桂剥きを半強制で約2時間ほどします。
ステンの盛りつけ台の上に古新聞などを敷き、その上に立って桂剥きを練習していました。
それは何故かと言うと、経験のある方はご存じだと思いますが、最初のころはプツプツと切れてまるで桂剥きにはなりません。
しかし練習を重ねるといつの間にか少しずつ上達し、2センチくらいだったのが5センチ.10センチ.50センチと伸びて来ます。
そうなると欲が出て、「もっと長く、切れずに剥いてやろう!」「背丈より長く剥いてみよう」とかなりますね。
バクチの調子が出ない先輩が、時々調理場に頭を冷やしに来ては、コツを教えて呉れます。 方法も結構手荒で、バクチで負けてカッカ来てますから、「ちがうーーっ、ボケッ!」とか言いながら向こう脛を蹴飛ばしたりしながらなもので、有り難いような有り難く無いような複雑な気持ちです。

包丁を大根に当て、上側は目で確認しますが、下側は包丁を持っている手の親指を目の代わりにします。 慣れないウチは、少しずつ包丁に当たっているところが大根と一緒に剥けて、痛いし大根には血が滲んでピンクになって来ます。
結構辛いものでした。
そうこうしているウチに2時間位経ちますが、全て自分の練習時間ではなく、間で夜食の「おじや」を作ります。
と言うか、作らされます。
これが味付けの練習ですが、最初の頃は全くどうすれば良いか、何をどの程度入れれば良いかも判ら無いままでしたが、薄い味付けにしておけば、ほぼ間違い無かった様な記憶が有ります。
ワタシはお給仕で、片隅に座り「辛い」とか「ウマイ」とかの第一声を固唾をのんで待機しているわけです。
大概は作った半分以上を捨てる事になるのですが、味が判らないので量で判断するため、毎日同じだけ作って居ました。

そのころ板場は多いときで12枚、一人を一枚二枚と呼ぶようで、当時十二枚立ての「舞台」(*仕事場を舞台とも言っていました)は香川県では五郷渓温泉だけだっただろうと思います。
それだけ大きな舞台だった訳で、大変な活気がありました。
ワタシは、まだ一枚とも呼べない、給料が六千円の新米ですが取り敢えず数には入って居ます。
寮となっているウルサイ部屋は8畳2間だったでしょうか、ワタシの布団は敷くところが無く、頭の上にはボイラーの配管が通っている押入で、 夏暑く冬暖かいと言う、夏は困る環境でしたが、それはそれで楽しかったです。
シーズンオフの少ないときで8名くらい、大阪の大原事務所と言う調理師紹介所から頻繁に入れ替わって居ました。

オヤジは当時29歳くらいで、職人気質バリバリでしたから、変な仕事の仕方をする人は、即、首!でした。
例えば、天ぷらを揚げて居たとします。
上がりがどこか判らず、菜箸を突き刺し確認をした人、その場で「首!」を宣告されて退場です。
他にもデザートに使ったりしていたバナナなども、切った後塩水で洗ったりすると「首!」と怒鳴っていました。
そう言う人に限ってワタシには優しく教えてくれたいい人ばかりで、基準が何か当時は判らず、優しい先輩は次々と辞めていき、それはそれは恐ろしい先輩ばかりが残っていましたですね。

こんな先輩も弱点が有るんです。
もう時効としても良いでしょう。 なんと言っても30数年経ってますから。
五郷渓温泉と言うところは何もなく、あると言えばバス停に雑貨屋が一軒、小さな大衆食堂が1軒だけの静かな山里です。
休みもままならない状態ですから、先輩達は休みを戴くと観音寺に出ます。
それは未成年のワタシには決して教えて呉れないところで、大体あの辺だな?とは予想がつきますが、15歳のワタシには早すぎると言うことでした。

暫く経つと、先輩は小便の度に「痛い」と言いだし、その理由は自分で判って居るらしく、他の者と「5W1H」の話で盛り上がります。
そうするとワタシの休みには、地図を書いてくれて観音寺の薬局まで「注射器とペニシリンを買ってきてくれ」とお使いを頼まれます。
当時は15歳の未成年が、薬局でペニシリンと注射器を買うことが出来た時代ですね。
今だと注射器は闇のルートで、いかがわしい麻薬とセットでしか一般人には手に入らない筈です。
ワタシは休みの夕方には、ペニシリンを待ちわびている先輩の為に五郷渓迄帰り、お医者さんになるわけです。
過去に「お医者さんごっこ」と言う、思い出すのもハズカシイ記憶がありますが、これは恥ずかしくはありませんけど、嬉しくも面白くも無いですね。
パンツを脱いで、うつ伏せになっている先輩のキタナイ尻に「ブスッ」とやる訳ですが、針先を上に向け薬がピュッと抜ける迄空気を抜いて、私はお医者さん気分ですが、先輩は患者と覚悟はしているモノの、うつ伏せでいつ打たれるか見えないせいか、一様に「ウッ」とか言って「ビクッ」としますね。

誰かがどこかのお医者さんで聞いてきたらしく、腕とかだと、下手に筋肉とかに打ったりしてマズイ事があるそうですが、お尻に注射するのは一番安全らしいですね。
そう言えば風邪の時など、太いのを2本くらいお尻に打たれた記憶があります。

このころでした、電子レンジが導入されたのは。
今では特価だと1万円台のがありますけど、当時で80万円とチラッと聞いたままですが、今でもこういう時に思い出します。
大きさもスゴイですよ。
高さも背丈ほどあり、奥行きも幅も大きな家庭用冷蔵庫くらいあります。
「チン」するところは今と殆ど変わらないですが、これがまたよく故障するんです。
私の給料の100倍以上のお値段でしたが、いつ使って居たかは記憶にないですね。


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