シューベルトは「ウィーン少年合唱団」の団員で、寮学校生活をしていた。ある日の

オーケストラ練習の時、初めてベートーベンの作品に出会った。「交響曲第2番ニ長調」と

「リヒノフスキー公爵に捧げる」だった。ベートーベンの曲・・それはシューベルトにとって、

ひとつひとつの音が、この上もなく力強く生き生きと輝いていた。これまでシューベルトが

「一番美しい」と認めているのは、モーツァルトだった。中でもオペラ「フィガロの結婚」と「魔笛」は

音楽の頂点だと思っていた。練習後、シューベルトは隣にいた「シュパウン」にベートーベンの事で

知っている限りを話してもらった。シュパウンは内心驚いていた。「いつもおとなしく、自分からは

話し掛けて来ないシューベルトが・・」。それから何週間もシュパウンはシューベルトからベートーベンの話を

せがまれ、質問攻めに合った・・。その後シュパウンはウィーン大学を卒業し、役人実習のため

故郷へ1年半帰り、再びウィーンへ戻って来た時シューベルトはオーケストラのリーダーの位置「コンサートマスター」の

席に座っていた。その時、すでにシューベルトは作曲を始めていた。そして、初めてその事を

シュパウンに打ち明け「パガールの嘆き」というリート(歌曲)を聴かせた。それは、わずか

14歳の少年が作ったとは思えないモノだった。が、しかし・・作曲を大反対する父を持つシューベルトは

五線紙を買うお金もなかった。シュパウンは彼のために、五線紙を買い与えた。シューベルトは

おそろしいスピードで五線紙を使い切った。シュパウンは、彼の父親にシューベルトが作曲する事を

許してもらえるよう、足を運んだ。シューベルトの才能に、寮学校の音楽教師「ルージチュカ」も

注目していた。ある日ルージチュカはシューベルトに、宮廷音楽家「サリエリ」の指導を受けるよう勧めた。

サリエリはモーツァルト亡き今では、ウィーン楽界の第一人者だった。有能な教師としても知られ

優秀な作曲家をたくさん育てた。その中には、ベートーベンの名もあった。

シューベルトの父は「あのサリエリに、ついているのなら・・」と、しばらくの間

作曲することを見守る決心をした。それからシューベルトは作曲活動をしたが、勉強が

おろそかになって退学・・。ある日、ミサ曲を頼まれ「ミサ曲 ヘ長調」の作曲に取りかかった。

5月17日に書き始め、わずか2ヶ月後の7月22日に完成。「ミサ曲 ヘ長調」の初演は大成功。

師サリエリからは「君は私に最も多くの名誉を与えてくれる生徒です」という言葉だけもらった。

再演も決まり、誰もがシューベルトに大きなチャンスが訪れたと思ったが、思うようにはいかなかった。

その後もシュパウンや他の友人達にバックアップされ、「シューベルティアーデ」という会が

作られた。友人からの紹介で、仕事にも就いた。それはヨハン・エステール伯爵の娘達に

夏の間ハンガリーで音楽を教えるというものだった。しばらくは良かったが、ホームシックにかかり

周囲に不満を感じるようになった。そして、友人に手紙を書いた。

なんとか仕事も終えウィーンに帰り、また作曲を始める。「シューベルティアーデ」は

どうにか彼の作品を世に出そうと出版社をまわったが目も向けられず・・。やがてシューベルトは

とんでもない病を背負う・・。時々体のどこかに吹き出物が出て、頭痛やめまいがした。

友人「ショーバー」に気付かれ、病因へ行くと・・彼は悪性の性病だった。

病と闘いながらも作曲をした。そんな頃、あのベートーベンは

死の床についていた。その中でベートーベンは、秘書の「シントラー」にシューベルトの作品を

見せられた。ベートーベンは、すぐにシューベルトのリートに夢中になった。ある日シューベルトは

「ベートーベンが危ない・・」と言うので呼ばれた。「どうして自分が呼ばれるのか」わからないまま

ベートーベンのもとへ行った。ベートーベンはシューベルトを見つめ、ただにっこりと笑った。

その1週間後の1827年3月26日、ベートーベンは息を引き取った。シューベルトは作曲が進むと同時に

病も進んだ・・。翌年1828年11月19日シューベルトはは兄に見守られながら、息を引き取った。

死因は「神経熱」と診断された。わずか31歳と10ヶ月の生涯だった。シューベルトの死後

ウィーンを訪れたシューマンが、彼のリートなどを目にし、出版社に紹介した。無数のリートや

交響曲などが眠っていた。シューベルトは「運の悪さ・不器用さ・無頓着さ」のために

生前チャンスをつかめなかったが、死後・・周囲の人々によって、チャンスをものにした。

今では「歌曲の王」と呼ばれ、人々に親しまれている。

現在も残る、シューベルトのメガネ

 

歌曲「魔王」

 

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