(4)-7 詫間海軍航空隊
すべての日本人にとって「戦後50年」という時間は、廃墟から立ちあがることに全エネルギーを費やした。そのため、どろぬまのような戦争についての問いや反省がなされ ないままに日本の「戦後」は進行した。だが、知らなければならない「事実」が、知らされないままに進行してしまう歴史は、誇りうる歴史とはいえない。

この平和な詫間町にも「詫間海軍航空隊」という神風特別攻撃隊の基地がおかれていたのに、その事実を知る人はもう少なくなった。いまから50数年前の話になるが、 日本全土から一万を超える兵士たちがこの町に来て、彼等の人生のすべてを太平洋戦争に捧げていた。そのなかで302人もの若い兵士たちは、祖国を守るために特攻隊員 として、詫間湾を飛び立ち、沖縄決戦などへと南の空に散華したのである。また、その航空隊を築造するために、詫間町民の中からも香田(こうだ)、和田内(わたうち)、 新浜(しんはま)の住民あわせて138戸の「強制立退き」という痛ましい犠牲者を出した。人さまざまに、戦争の哀しい歴史を秘めたまま、すでに半世紀という「時」は 流れている。

このたび当編集委員会では、詫間町の太平洋戦争にまつわる出来事を、できるだけ多くの方々の証言をつなぎあわせ記録に残すという作業を約1年間続けた。むなしく風化 しょうとする戦争体験が「戦争を知らない世代」にも正しく受け継がれ、戦争というものの愚かさと、平和というものの貴さを深るよすがとなるならば、最も幸いとすると ころである。

平成9年4月1日

詫間海軍航空隊記録編集委員会
4-7001 二式大艇
昭和20年11月11日は日本が戦争に敗れ、詫間海軍航空隊に日本で3機だけ残っていた二式大艇の一機を米軍に引き渡した日であった。当日、詫間湾を飛び立った その大艇T−31号が、詫間の上空で別れの旋回飛行をしていたとき、主翼にあった日の丸が消されて米軍の星のマークになっているのを見たときの悲しかった思いは 、今も詫間町民の心の中に残っている。

横浜港へ着水した二式大艇T−31号はすぐ米軍パイロットによってハワイ経由でアメリカ東部のノーフォーク基地へ運ばれ、そこに保管されていた。そして昭和54年 、日本船舶振興会(現日本財団)によって34年ぶりに日本への里帰りが実現し、船の科学館で一般公開されている。

二式大艇は、太平洋戦争末期には詫間海軍航空隊だけに配備されていて、世界で最も優れた飛行艇として太平洋上空において米軍戦闘機とよく戦った。ちなみに昭和20年 2月から8月までの半年間に、詫間から四国山脈を越えて太平洋方面への索敵に出た二式大艇(乗員12名)は、27機が撃墜され250人の搭乗員が命を失っている。

「詫間海軍航空隊物語」詫間海軍航空隊記録編集委員会
4-7001a 二式大艇12型イラスト
4-7001 二式大艇12型平面図
二式飛行艇 12型H8K2(川西製)

型式:四発 高翼 単葉 座席数10
所要寸法:全幅38.0m 全長26.8m 全高8.65m 
重量:自重17500kg 正規24500kg 過荷32500kg
発動機:火星22型 4基 離昇馬力1850
プロペラ:4翼恒速
ハミルトン:直径3.9
兵装:射撃 20×5、7.7×4 爆撃雷撃 800×2または250×8または60×16
性能:最高速度232ノット−高度2200m、 上昇時間4000m−7分55秒 6000m−13分32秒
実用上昇限度9120m
航続力:高度4000m−速度160ノットで3862浬

詫間海軍航空隊記録編集委員会
4-7002 詫間海軍航空隊平面図
4-7003 詫間航空隊本部
詫間海軍航空隊の開隊

昭和16年の暮れ工事が開始された詫間海軍航空隊の建設も、昭和18年に入るとしだいに全容をあらわしてきた。正門を入ると、正面には本館があり、 左側(南)には一段高いところに士官舎、右側(北側)には一段下がったところに練兵場(現在の詫間電波高専野球場)があり、その奥にほ兵員宿舎が 建ち並び、兵員烹炊場、兵員休憩所、ボイラー室等、付属建物が整然と立ち、練兵場の東側と西側にほ海へ続く道路が滑走路に続いていた。
海岸に広がる滑走路東側は、小型水上機用の幅150m、長さ80mの滑走路が海へ入っており、山側には発動機試運転場、木具機関工場、その他兵器場があった。 その海側には小艇機体格納庫、発動機整備場等が立ち並んでいた。
滑走路西側には小型機用の数倍ぐらいの駐機場と、鋸刃形の屋根を持った大艇機体整備場があり、大艇用の幅50m、長さ100mの滑走路が3基海へ入っていた。 通称大艇ポンドと呼ばれていたようである。

大艇、小艇それぞれ指揮所があった。東側の指揮所(小艇用)は戦後ここに立地した企業が事務所として平成7年暮れごろまで使用しており、海側は180度展望 できるよう三面がガラス戸の建物で、壁にはところどころ海軍軍人が書いたと思われる落書きがあった。
外に大艇用のズベリ(海へ入る滑走路)の横には戦闘指揮所があった。実戦部隊801空が使用していたものであろう。
整備された隊内が見えないように、県道沿いの周囲には高い板塀がめぐらされ、内部を見ることが出来なかった。
正門では、着剣した銃を持った衛兵が、昼夜を問わず立哨に当たり、検問をしていた。

昭和18年5月末、開隊に先立ち、詫間小学校の旧校舎前で海軍軍楽隊による吹奏楽が披露された。照明に浮き出た軍果隊員やピカピカの楽器に、 子供たちは大きな感銘を受けた。しかしそのころ、若い男性は少なく、老人、子供、婦人等がほとんどであった。
そのころの戦況は、2月7日、日本軍ガダルカナル島から全員撤退、4月18日、山本連合艦隊司令長官戦死、5月29日、アッツ島守備隊全滅と、 日本軍が不利な状況であった。世界長強を誇った空母機動部隊は前年の昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦において、空母赤城をはじめ、加賀、 飛龍、蒼龍の四空母と多数の搭載機、熟練した優秀な搭乗員を失っており、日本海軍の敗退が始まったころであった。

昭和18年6月1日、詫間海軍航空隊が開隊された。この隊の当初の目的は、水上機の実用機教育を一貫して行うもので、佐世保の飛行艇教育部隊が、 97式飛行艇と飛練・搭乗員練習生・教官・教員・整備兵と共に進出。同時に博多空と天草空の水上機教育部隊の教官、練習生が、93水中練(93式水上中間練習機) とともに着任した。

詫間海軍航空隊は、開隊当時第12連合航空隊に編入され、練習航空隊の指定を受け、水上機の実用機教育を担当していた。主要配備機は94水偵(94式水上偵察機)、 零観(零式観測機)、97大艇(97式飛行艇)、二式大艇(二式飛行艇)、二式練艇(二式練習用飛行艇)、93水中練(93式水上中間練習機)等で、 外に晴空(二式飛行艇を輸送機に改造)も配備されていた。時には、二式水戦(二式水上戦闘機−零戦に単浮舟をつけ戦闘機としたもの)も配備されていたようである。

詫間海軍航空隊発足と同時に、広島県福山市に、詫間海軍航空隊福山分遣隊がおかれ、そこでも水上機の実用機教育を行っていた。昭和20年3月1日には独立して、 福山海軍航空隊となった。
また、昭和19年3月15日には、愛媛県西条市にも、詫間海軍航空隊西条分遣隊が置かれ、ここでは陸上機の操縦訓練を実施した。主要配備幾は93中練 (93式中間練習機)であった。昭和20年3月1日、同じく独立して、西条海軍航空隊となった

詫間海軍航空隊記録編集委員会
4-7004 出撃風景1
4-7005 出撃風景2
4-7006 出撃風景3
4-7005 出撃風景4


(4)-7-1 詫間海軍航空隊の特攻

(4)-7-2 詫間海軍航空隊の航空標識

(4)-7-3 詫間海軍航空隊の実弾射撃場

(4)-7-4 詫間海軍航空隊の補給所

(4)-7-5 詫間海軍航空隊の訓練開始

(4)-7-6 詫間海軍航空隊の建設

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