(4)-10-1 四国の機関車・ディーゼル車
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4-10-1002 多度津駅に残る給水塔
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四国の機関車

谷沢 潤二  1957 鉄道 ピクトリアル 9月号

四国の車両運行の特色は島内一管理局のみという小世帯のため,他局の車の乗入れが全くない(貨車と荷物車運用は除く)ということである.そのため調査には便利であるが変化がないという点において は少なからず物足りない。以下機関車(気動車を合む)についての概況を述べて行くことにする。

1.高松機関区

C58は土讃線旅客列車に使用するため全車集煙装置及び重油併焼装置付であり(但じC58333は集煙のみ),高松−高知間117.130、115.126、135.122、123.118の8列車 を担当している。この外高徳線で徳島まで3往復すなわち263.212、221.226、223.214の6列車,、予讃線で八幡浜と伊予三島まで旅客各1往復、多度津まで貨物1往復に使用され、 10仕業,9両使用、4両予備である。

乙組8620は高徳線で牟岐まで直通する4往復(213.222、219.216、215.224、217.292)が目立っているが予讃線でも貨物列車で松山と西条までそれぞれ1往復している外, 高松付近で徳島まで2、琴平まで4,多度津まで各4往復の小運輸に旅客・貨物共通で使用され、全部で15仕業13両使用である.また高松駅構内の入換も当機が終日4両(客人1、貨1、宇高丸積替1、 大形船積替1)で働いている。

次に丙組として去る6月15日から高知までディーゼル機による3往復(113.108、131.136、119.132)が新設になり、2両使用1両予備でDF401.501.502の3両が充当さ れている.

最後に気動車では高松−琴平間の411〜419列車がキハ17形2両連結により,その他900代列車がキハ07形単行(3両使用)によってそれぞれ1両ずつの予備車を持ち運行されている。 なお933・934列車及び921・912列車の高松−多度津間はキハ07形は重連となる。
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2.多度津機関区

分枝駅にある機関区は誰でもその従となる線区を受持つのが常識と考えるが,当区の場合は逆であり,現在のところ土讃線へは全然入らず,松山区と共に予讃線の列車を担当している。

多度津駅の入換専用機48684を除き全車C58であり,松山区のC53と共に改造されたものなく原形通りである.準急”せと”号の上下列車(多度津−宇和島)と“いよ”号の 松山以東の上り列車は甲組5仕業の5両が受持ち,特に“せと”号にはヘッドマークがつけられている。

乙組は6仕業6両使用で甲乙両組共主として旅客列車で高松−宇和島間に用いられ,貨物は僅かに高松−松山間1往復位のみである。

なお多度津工場内には6841が入換に従事しており、両端は警戒色に塗られてある。

3.松山機関区

当区の甲組C58,7仕業6両は数年前に他局からの転属車を集めてできたもので,それまでは東の多度津区のC58オンリーに対して8620の独り舞台であった。準急”いよ”号の下り 全区間と上り宇和島−松山間の外,多度津区と同様旅客列車に主に用いられ貨物は高松−多度津間1往復,八幡浜−宇和島間1往復だけである。

乙組8620は12仕業9両便用で予讃線(多度津−八幡浜間)の貨物列車に使用され,旅客は松山付近のローカル列車(松山−菊間340・341レ,松山−八幡浜23・28レ,松山−今治48・45レ, 多度津−観音寺29・42レ)のみ.なお松山駅構内には常時1両入換用として使用されている。

気動車は多喜浜−伊予市間に運転され05及び06形を3両使用、2両予備で単行或いは重連で運用しているが今度新車のキハ20形(5〜8)が4両入りこれに代る。
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4.宇和島機関区

甲組として申訳的に8620形式の3仕業3両便用があり,宇和島−松山間の貨物列車に使用されているが,主役は乙組のC12であろう。10仕業5両使用のC12で宇和島線と内子線の全列車を担当し, その他予讃線下宇和まで法華津峠の補機として2仕業,内子線出稼の際八幡浜−宇和島間の貨物列車を往復けん引している。

5.高知機関区

四国唯一のC51はC58と共に高松区同様重混・集煙装置付で,甲組6仕業7両使用多度津−高知間の全部の貨物列車をけん引し,内3往復は高松まで乗り入れてくる。乙組にはC58が9仕業7両使用で 高知以西の旅客列車と少数の貨物列車のけん引に当っており、以東へは岩原まて1往復の外、高松まて乗入れるのは上り124レと下り”南風”号を受持つ1往復のみと僅かである。

丙組として8620が6仕業4両使用で高知以西の旅客・貨物両列車に当っている外、別に高知駅の入換にも1両使用きれている。

気動車は高知−土佐山田間7往復を06形1両で毎日賄っており、予備として1両ある。
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6.小松島機関区

当区は8620形式オンリーで小松島−阿波池田間4往復、高松−徳島間5往復、徳島−牟岐間3往復の旅客と貨物列車に使用されているが、補機として阿波池田−讃岐財田、讃岐相生−阿波大宮間にも一部 用いており11仕業10両使用である。なお当区の機全車に先頃火粉止器が取付けられていたが、最近ではまた全部取除かれている。

7.徳島機関区

支区は当区以外に西条と池田にあるが、車両の配属されているのは徳島だけである。

甲組はC11形式の10仕業1入換4両使用で、鳴門線及び徳島近郊(小松島まで2、阿波川島まで1、穴吹まで2、阿波福井まで3往復)の小運転と徳島駅の入換に従事している。

また乙組としてC12形式の3仕業2入換2両使用で、鍛冶屋原線の全列車と鳴門線1往復,牟岐線阿波橘及び桑野まで各1往復それに徳島駅の入換に当っている。

気動車は四鉄随一であり,徳島本線の大部分の列車はディーゼル化の第1陣として置替えたもので,甲仕業はキハユニ16+キハ17×2の3両1編成、乙仕業はキハ17または11×2の2両5編成計13両使用で, 400代番号の列車を最高7両編成で運用している。

鳴門・鍛冶屋原の各支線の900代列車は丙組の05が単行または重連で8仕業4両使用して運用しているが,時には両運キハ11が代行する場合もある。

以上が機関車のあらましであるが参考事項として2,3付記すれば,ナンバ−プレートは高松区が赤,多度津までは青,高知区は緑(その他は黒)の色を塗ってある。また機関車庫は高松・松山・宇和島・高知が 扇形鉄筋コンクリート造,その他は矩形庫である。気動車庫は高松と徳島(蒸気が一部使用)及び小松島にあるが,小松島のものは現在他の目的に使用されている。(鉄道友の会々員)

四国のディーゼル車両

1957 鉄道 ピクトリアル 9月号より

蒸気機関車の製作が中止されてから数年になるが,その間幹線は電気機関車に,支線は気動車に,トンネルの多い線はディーゼル機関車にとかわり,旅はますます快的になりつつある。

四国の鉄道はもちろん後者の類に属し,気動車とディーゼル機関車に進みつつあるが,戦後これが如何に発達してきたか跡をたどって見よう。昭和10〜15年頃は全国的にガソリン動車の全盛時代 であって,四国でも高松と徳島地区にて運転きれていたが戦のたけなわとなるに及んでガソリンの規正,車両特に機関部品の補充がつかないなどのため,段々と動けなくなり19年頃には月に数日動く という状態であった。したがって,これら動けなくなった気動車は機関区の隅にて倉庫代用または区員の詰所として使用されていた。戦後客車が少くて輸送力不足にこまっていた時,何んとかしてこの 気動車を動けるようにしようと機関の部品をエ面し,整備を始めて昭和21年11月にやっと高松区にて41000形式が2両動けるようになった。

またこの頃自動車がお尻に大きなガス発生炉をつんで走っていたのをまねて,ちょうど当時この種の自動車の修理をしていた多度津工場にて,その技術を生かして昭和24年12月高知区の41000形式に 1両この装置を取付けた。その構造は運転士の横の座席をはずして,ここに木炭ガス発生装置を置き,発生したガスはパイプで機関に導いた。またこの月より徳島にもガソリン動車が2両動き始めた。しかし、 なお輸送力を増すため高知と同様な木炭動車を翌年2月より1両動かし始めた。こうして木炭動車は後にも述べるように運転上不具合な点が多くて休む日が多かったが、昭和25年4月頃には効率の最もよく動いた 月で2両で月間6,000キロ位走った。
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昭和25年6月になり徳島にはガソリン動車が1両増備されたので木炭動車は高知に集めて使用した。

木炭動車は木炭自動車と全く同様で炉の中に木炭を投入し,鉄棒にてつついて十分につめ,ふたを密閉して下から点火し,動車に積んだ蓄電池にて送風機を回転して風を送り発車までにガスの発生が盛んになる ようにする。しかしこうして発生炉の調子がよくなっても40キロも走ると炉の下の方の木炭がかたまって(これをクリンカーといった)ガスの発生が衰えるのでその度にこのクリンカーを取出し,木炭のつめ かえをしなければならなかった。したがって整備関係者は木炭のごみと煙の中での作業に苦労し,運転士はガスの発生が衰えると気動車の速度が出ないため,また客車と違って乗客が容易に運転士に近づくこと ができるなどのため,乗客が横にきて,“もっと走れ,もっと走れ’’とけしかけられてこまったこともあった。修繕担当者はガソリン動車に比してピストンの分解修繕が多くて苦労は甚しいものがあった。

昭和26年11月になり燃料費の節約のため全国的にガソリン機関をディーゼル機関に積替えるようになったので,日常保守に最も苦労していた高知の木炭動車をまず一番に積替え,12月には徳島の動車を, 続いて翌昭和27年4月には高松も積替えて四国の全車両9両を全部完了した。この時41000形式には自動車に使用していた日野ディーゼル会社のDA55機関を積み41500形式と称呼をかえ,また 42000形式には当時のガソリン機関と形のよく似た国鉄設計の新しいDMH17形ディーゼル機関を積み42500形式と称呼をかえた。

かくしてガソリンの約半値の軽油を使用し,また気動車が1キロ走行するに必要な燃料はこれまた約半分近くになり、結局1キロ当たりの燃料費は1/3位になって初期の目標を達した。
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昭和28年10月国民体育大会が四国の各地で開催された。これと時を同じくして液体変速機付の気動車45000形式が新製された。この気動車は今までの歯車式が1両毎に運転士を必要としたに反し, 液体変速機を取付けたため長編成を1人の運転士にて操縦できるようになり気動車使用史上革命をもたらした。この気動車を全国より集まった国体出席者に見てもらうべく,その最初の新車45000・45001 ・45002号の3両を東京原宿ホームにおける展示会終了後,直ちに四国の玄関高松に回送してきて運転し喝采を博した。

この45000形式の配置で高松では42500形式が浮いたのでこれを松山に回して,この地区としても始めての気動車を運転した。

これにて四国4県の県庁所在地は4ヵ所とも気動車を運転するようになった。国体は開催地の施設,道路がよくなることはどこも同じであるが,四国では交通車両にも一エポックを作る気運となった。

液圧式動車はその後28年12月にはきらに8両配置になり,これまで使用していた3両ほ名古屋へ配置換になった。29年1月に1両,3月には4両配置になった。これら車の大部分は徳島に配置して 徳島線を走らせた。当時の液圧式動車には荷物車がなかった。したがって手小荷物の少い線区を選ぷ必要があった。また予讃・土讃線には航送を渡ってくる本土からの直通荷物車があり,旅客列車はこれを 組込んで運転するが気動車列車にこれを組込むことができないなどの理由で徳島線を選定して29年4月旅客列車を気動車列車に置換えた。ペイントの色もつやつやしい新車6両で編成した見事な列車が走るのを 眺めた時は,前年の夏東鉄における実習以来,乗務員・検修員の養成,設備の完成にと日夜努力を重ねてきた関係者にとっては全く長年育てた娘を嫁に出す親のような気持ちで見送ったのだった。

昭和31年11月の大時刻改正の時には四国の気動車は液圧式20両,歯車式14両計34両となった。

こうして気動車が揃って見ると41500形式は75馬力で力が弱く速度の点で物足らなく,一方競争相手である自動車はますます大形になり,道路の整備と共に速度が早くなってきて全く見おとりがし始めたので, 31年下半期より今までのDA55形機関の部品の一部を取換えて100馬力のDA58形機関に改造し,41400形式と称呼した。
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昭和31年4月当時川崎車輌にて新製されていたDF40形式ディーゼル機関車を借入れして高松に配置した。この機関車は,車輪配置がC−C形すなわち3軸台車を2個使用した新形であったので使用に先立ち, 土讃線の急曲線の所に入れてレールに対する横圧を測定したところ,この線に使用しているD51形式蒸気機関車のそれよりも大きいので種々改造を試みたが,見るべき効果が上らなかったので遂に会社まで持ち 帰り大改造を行うことになった。ところが土讃線の方は一旦ディーゼル機関車が入ったのにまた姿費消してしまうのはきびしいので,一時北陸線敦賀機関区よりDD50形式を1両借りて運転した。

一方さきのDF40形式は約半年の改造の結果,成果なりて10月より運転を始め今日に至っている。その間1回は運転事故となったがそれ以外は至極成績良好に運転している。土讃線の準急上り南風に使用して いるが,この列車は本土の瀬戸に連絡して東京に通じているので,南風の遅延は本土への接続を欠き寝台客,特口客には多大の迷惑を及ぼすのだが,未だ1回も接続を欠いたことはない。

4月にはちょうど丙修繕に会社の万へ一旦帰ることになっている。そして新しく新三菱重工にて製作きれたDF501号及びDF502号の2両が配置になった。この形式は国鉄にて今後多数新製するディーゼル 機関車の代表形式である。したがってさきに液圧式気動車の第1号を四国で使用したのに続いて,今回は標準形ディーゼル横取車の第1号もやはり四国で使用し始めることになった。

DF50では機関車を2両以上連結して総括制御で運転できる構造になっている。したがって運転台の中央に他の車に渡るためのひらき戸がある。また運転台では他の車の機関が運転を停止したことが判るような 表示灯もある。DF40は単車運転を立前に設計されたので以上のような設備はない。次に運転室の暖房についてはDF50では機関にて暖かくなった冷却水を足の下に通し,DF40では腰掛の下の1KWの 電熱器を取付けている。

最後に機関室内では主機関の外に種々補助機械があり,これの運転方法が違う.

すなわち主電動機を冷却する送風機,主機関の冷却水を空冷する放熱器に風を送る送風機,空気圧縮機などの運転はDF50ではいずれも個々の独立したモーターにより運転しているが,DF40形式では重量軽減, 製作費の低廉を目的に機関の軸よりベルトで回転している。

このように四国の鉄道は終戦後県庁所在地の都市付近の近距離輸送用に歯車式動車が動き始め,次いで液圧式動車ができるに及んで中距離旅客列車が気動車列車にかわり,またトンネルの多い土讃線の列車は 蒸気機関車からディーゼル機関車にと変って行った。

今後の問題としてはなるべく早く土讃線の全列車がディーゼル機関車にかわり,続いては四国の全列車が気動車とディーゼル機関車けん引の列車にかわり「四国の列車には煙のない」という日の一日も早からん ことを祈って筆を置く。

(四国鉄道管理局運転部 1957年−昭和32年)
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