10-3 維新の僧 月照
10-3000   
牛額寺(香川県善通寺市碑殿町)の看板には 以下のような説明文があります。

勤皇僧月照・信海両上人由来記

讃岐一国札所五十一番、真言宗の牛額寺は吉原大池の北、雨霧山の西麓にあり月照・信海兄弟が出家得度した寺である。

この寺は室町時代(長和五年)小野仁海僧正の開基で、お堂の裏山の洞窟から往古「二頭一身の牡牛」が出没した伝説から寺号を得る。

月照は文化十年、吉原村下所に生まれ、叔父蔵海(当時の住職)に弟子入りし、二十三歳で叔父の後を継ぎ、清水寺成就院の住職となり 近衛家や青蓮院宮の下に出入りし国事を論ずるが、安政大獄の時、京都を脱出し西郷隆盛と共に薩摩に逃げるが、島津斉彬公没後で藩政 厳しく、処置に困り、日向へ「永送り」とし、錦江湾で西郷と二人で海に身を投げ西郷は息を吹き返すが、月照は四十六歳で帰らぬ人となる。

弟、信海も当寺で出家後、叔父・兄とともに京都へ上りやがて高野山で修行をし、兄の後を受け継ぎ、第二十五世として成就院の住職となり、 これも勤皇に尽くし、やがて幕府に捕縛され、翌六年に三十九歳で獄死した。

讃岐の生んだ維新の傑僧の遺徳を正しくかつ広く世に伝える為に、昭和五年に両上人の銅像を建立。その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出 し台座だけとなったが昭和五十三年四月石像として再建された。

10-3001 月照の石像(牛額寺)   
10-3002 信海の石像(牛額寺)   
10-3003 『勤皇忠僧 月照』(昭和5年発行 宮武福太郎著)   
『勤皇忠僧 月照』の7p〜9pによれば

故国の判明しなかった月照上人

今から40年程前、清水寺で売っていた本『月照上人』と題する小冊子がある、その小冊子には月照信海上人の生まれた郷国や父母に就いては、大阪市 平野町心斎橋西へいる所に住して『父は代々医を業とし、玉井宗江という』と書いてあった。そこで月照信海両上人の故国は大阪であって玉井宗江と云う 医者の子であると一般の人は思う様になった。

明治24年12月明治天皇は維新前後に仆れたる勤皇家の第一回論功行賞があった時、兄月照上人は正四位に、弟信海上人は従四位に叙せられ、その業績 の顕著なる事実が発表せられ、名声嘖々たる事となって、大阪市では之れを頗る名誉として、両上人の事跡を調べる事となった、ところが玉井宗江と云う 人は確かに心斎橋西へ入る所に住して医者をして居たものだが、余程以前に此世を去って其墓は玉造りにある事迄は判ったが、さて其子であると云う両上人 が果たして大阪で生まれたものか否かと云う事は判然しなかったのであります。

ところが茲に讃岐地方の伝説として『月照上人の生れは弘法大師の生まれたところと同じ土地であって縁者は今尚生存して居る』と宣伝さるるに至り、 明治29年頃には地方有志が発起となって多度津町宝性寺内へ事務所を置き月照上人の記念碑の建設を企図した事もあった。その後明治31年頃に 香川県の産んだ国漢学者黒木欽堂氏の著した讃岐史要と云う書物には『勤王僧月照信海両上人の生まれた所は多度津郡吉原村であると云ひ伝ふ』と発表 されたのです。

その後香川県に於て多大の費用を入れて香川県史と云うものを発行する事となって色々調査の結果、愈々月照信海両上人は讃岐で生まれた事が判然と 世の中に知られる様になったのであります。

月照(1813〜1858)について

国事に賭けた異色の僧  清水寺成就院住職

月照の父は、大坂で町医者をしていた。月照は15歳で出家。清水寺成就院住職の叔父蔵海の弟子となり、やがて名を忍向、号を月照と称する。

その後、23歳で成就院住職となったが、和歌を通じて近衛忠照の信任を得ることによって、いやおうなく幕末の政争にまきこまれていくことになる。 そして安政元年、月照は住職を弟に譲り、国事に一命をかけることを決めた。

安政5年3月、西郷が将軍夫人篤姫の近衛あての書を持って上洛し、月照らとともに宮中工作を計ってから、月照と西郷は固い信頼で結ばれた同志となる。

同年7月にも西郷は上洛し、月照としばしば会って朝廷工作の謀議をめぐらせた。密会場所は、月照側は清水坂の清閑寺、西郷側は東福寺の奥まった即宗院。 宮家に自由に出入りできる月照は、水戸派や志士たちにとっては、かけがえのない朝廷工作のパイプ役となったのである。

月照は、小柄で物静かな口調の人だったが、内には死を恐れぬ激しい情熱を秘めていた。当時、32歳だった西郷は、14歳上、46歳の月照を心から尊敬するようになる。

その月、西郷は斉彬の急死の知らせを受けた。西郷は生きる方向を失い、帰国して殉死しょうとする。これを月照が慰め励ましたという話は本当だろう。

西郷は、斉彬の死のショックから立ち直り、再び政治活動に奔走するようになった。が、それもつかの間、やがて安政の大獄が起こり、身辺に危険が迫ってくる。

9月10日、西郷は近衛家から月照の保護を頼まれた。深夜、月照は従僕の重助を伴い、西郷・有村俊斎ととむに京都を脱出した。9月22日、大坂出帆。 10月1日、下関着。西郷は一足先に帰国して、月照の受け入れ準備に駆けまわる。しかし、西郷の努力もむなしく、斉彬の死後保守化した藩論を変えることはできなかった。

11月10日、月照は平野国臣に伴われて鹿児島に着き、清浄光院に宿泊。翌日、月照は西郷を訪ね、情勢の厳しいと幕吏が迫っていることを知る。西郷は自分の非力を詫びた。

15日、藩庁は月照主従を日向追放と決定し、西郷に即日実行を命じる。その夜、月照主従に西郷、平野らも同船して小船で出帆。16日未明、大崎ケ鼻沖で、小さな月照は大きな 西郷に抱かれて海に飛び込んだ。が、月照は死に、西郷は息を吹き返す。西郷の懐中には次のような月照の辞世の句があった。

大君のためには何か惜しからむ    薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

明治7年、重助が17回忌の墓参に来鹿。西郷は、月照を偲ぶ詩を書いて泣いたという。

相約して淵に投ず後先無し、
豈図らんや波上再生の縁。
頭を回らせぽ十有余年の夢、
空しく幽明を隔てて墓前に哭す。



次のページに進むには次の矢印をクリック →

トップページにもどるには次の矢印をクリック