(5)-1 丸亀城


戦前絵葉書より−日本一の深井戸と丸亀城天守閣


丸亀城天守閣南側(08.4.6)


丸亀城と新緑(08.4.20)


標高66mの亀山に築かれた平山城。
別名亀山城とも呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪があり、東西約540m・南北約460mの内濠内204,756平方メートル が史跡範囲です。
「石の城」と形容されている名のとおり、丸亀城は石垣の名城として全国的に有名です。(昭和28年国指定・史跡)
(丸亀市教育委員会文化課パンフレットより)

丸亀城は、丸亀平野の北端に位置する海抜66mの亀山に築かれた平山城である。丘陵を二重三重にらせん状に巡る高石垣には目を奪われる。ただし、 現在目にすることのできる石垣は、寛永19年(1642)以降のものである。

城は、生駒氏段階のものとそれ以降のものとが縄張に混在している。生駒氏段階の城は改築が激しく絵図でしか全容を知ることはできない。それによ ると、最高所に本丸を置き、一段低い位置に二の丸がある。さらに一段低い位置に帯郭を巡らしている。また、屋敷地は中腹部に設けられ、三方を八間 の石垣が取り囲んでいる。これらの郭にある織豊系の石垣と考えられる古い石垣は、平城5年の石垣修理工事に伴う発掘調査の際に現在の石垣の内側の 地下から確認された。生駒氏の本丸の石垣は、現在の石垣から3m奥まった位置の地下6mの場所から発見されている。

発振調査の結果、古い石垣は強制的に破壊されているようで、おそらく元和の一国一城令(元和元年〔1615〕)による破城を示しているものと考えら れる。

天守

生駒氏段階の天守は本丸の一段高い部分に築かれていたが、現在の天守は北の大手側を正面にして建てられており、本丸北面の塁線上中央にある。北面の 天守の真下に二の丸にいく通路が存在するため、石落と狭間が設けられている。天守の規模は東西6間×南北5間の三重三階である。東西側には千鳥破風が あり、南北側には唐破風を配置している。人口は西側にある。現在の天守は万治3年(1660)に京極高和により建設されたものである。

京極氏の縄張
輪郭式に三重に取り巻く高石垣で縄張された現在の城は京極氏の手によるものである。また、北にある大手に見られる門は、一の門と二の門で構成されており、 土橋を渡り一の門である高麗門をくぐり桝形に入ると右手に二の門となる渡櫓門があるという形態は、近世城郭の枡形虎口の教科書のような完成された姿である。



(5)-2 高松城











日本を代表する海城

高松城は、かっては城壁が瀬戸内海に直接に面しており、堀には海水が引き込まれ、城内には舟入(港)まで設けられていた。海城と呼ばれるもので ある。海城は、海上封鎖が難しいので、籠城時の物資の搬入や万一の際の脱出が容易である。また、水攻めも可能で、近世の大規模な龍城戦には大変 に有利であった。

高松城は天正16年(1588)に生駒親正によって築城が始められており、全国の海城の中でも特に早い年代のものであった。高松城は、日本最初 の本格的な海城といってもよく、後に築かれた海城と比べても規模が大きく、海城の代表例である。

海中に浮かぷ天守

高松城の本丸は、広い内堀の中に小島のように独立して存する。築造年代が他の近世城郭より早い天正期(1573〜92)であるので、本丸の面積 はかなり狭い。そのため、御殿を本丸内に収めることができず、天守だけを建てて、多聞櫓で曲輪を囲う、天守曲輪であった。

本丸の東端に大きな天守台が突き出ており、天守の南・東・北の三面が水堀に面している。二の丸の方から眺めると、あたかも天守が海上に浮いてい るかのように見えた。天守は三重四階の南蛮造(=唐造、最上階が外へ張り出す形式)であったが、明治17年(1884)に取り壊された。

本丸の北側、すなわち海側に二の丸があり、本丸と二の丸の間は、長さ16間(約30m)の木橋で結ぶだけである。本丸へ通じるのが木橋一本だけ というのは、近世城郭の縄張としては異例なことで、もしこの木橋を敵に落とされたら、本丸はまさに袋の鼠ならぬ、鼠を入れた袋となってしまう。

二の丸のすぐ北側は海が迫っていた。本丸と二の丸の東側には、やや広い三の丸があって、ここに城主の御殿が設けられていた。三の丸の北東隅を囲う 通路状の曲輪が北の丸(北新曲輪)、三の丸と中堀を挟んで東側に位置する曲輪が東の丸で、ここには米蔵が建てられていた。北の丸と東の丸は、生駒氏 の後に城主となった松平頼重が増築したものである。北の丸の北西隅に三重の月見櫓、その脇に海へ向かって開く水手御門が残る。

本丸・二の丸・三の丸の城郭中心部を西方から南方にかけて、鉤の手に囲む曲輪は、西部を西の丸、南部を桜の馬場と称し、その外側を中堀が取り巻い ていたが、現在では埋め立てられている。桜の馬場の東端には、大手口の太鼓門の桝形がある。現在、その脇にそびえる三重櫓は、東の丸の北東にあっ た艮櫓を移築したもので、かってはここに太鼓櫓があった。



(5)-3 多度津陣屋








丸亀藩の支藩として立藩

元禄7年(1694)、丸亀藩主京極氏二代高豊は、嫡子高或がまだ幼少であったため、夭逝した際御家断絶をさけるための藩主の控えとするため庶長子の 高通に一な万石を分知(知行地を親族で分割すること)し、多度津藩を立藩した。所領は多度郡と三野郡内15ヵ村であったが、陣屋は設けられず、多度津 には別館とわずかな家臣を派遣させるだけで、藩政執務は本藩の丸亀城内に設けられた居館で行われていた。

文政9年(1826)四代藩主高賢のとき陣屋構築が許可され、翌10年にほ完成、文政12年(1829)に藩主の人部が行われた。しかし、陣屋としての 存続期間は短く、五代高琢、六代高典と三代43年で明治維新を迎えた。陣屋の置かれた位置は、瀬戸内海に突川した砂洲上であった。

家中に囲まれた陣屋

陣屋は藩の中枢となる御殿を中心に、その東側には蓮堀を設けて、大手を構え、南側の入江には極楽橋が架けられ、石橋門を構えた。

御殿は御居間、御書院、御湯殿、御二階、御休息、御前御次・御台所・御用部屋、御蔵(二棟)など八棟からなり、その規模はおおよそ230坪であった。

大手門の構造については「二間二尺、梁行打越、流一間半、袖付」の記録が残されている。御殿の西側には広大な調練場が造成されたほか、周囲には新御殿、 東御殿、藩校自明館、剣術道などの施設や、藩米庫、作事場、御厩、的場が散在していた。

御殿東側、大手門と東門に限られた一画には家中と呼ばれる士屋敷が配された。大手筋は幅四間半の大道路で、これを中心に鉤の手状に小路が配置され、士屋敷 が建ち並んでいた。

陣屋御殿は明治維新直後に壊され、鉄道施設となり、現在その痕跡はまったく残っていないが、家中の街路は今も鉤の手状の袋小路となり、また随所に武家屋敷 が残り、陣屋町の面影を伝えている。


(5)-A1 多度津に関する話

(5)-A2 多度津の古写真




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