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自然栽培を求めて四国山中を彷徨う


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自然栽培を求めての社長の奮戦記をお読み下さい、社長はマジですよ(笑)

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自然栽培とは
ちろりん村 代表 大西光明
1970年代、東京暮らしに疲れた私は有吉佐和子さんの複合汚染を抱えて安全安心な世界を目指し一路ふるさとの四国へ戻り愛媛県の自然農法(自然栽培)家「福岡正信」先生の門をたたきました。

「気の済むまで小屋で暮らせばいいぞ、教えることは何もない、米は好きなだけ自分たちで炊いて食べなさい、ほれハガマはそこにある、薪もある、ただし仲間と共同生活だ、部屋は全員相部屋じゃ」「トイレは?」「そんなものはない!外で自由にしなさい」「あの〜お米はありますが、おかずは?」「そんなもはいくらでもある、家の周りに自然栽培の大根や白菜が勝手に生えとろうが」という新鮮な驚きの世界、当時25歳の私はすでに家族持ちだったので半日でお暇(いとま)し(ようは逃げ出したのです)その足で次は高知県有機農業研究会代表の自然栽培を地でいってる原田先生の門をたたきました。

原田先生は剛毅なお方で実直というか曲がったことが大嫌い、自宅から畑のある山頂までクネクネ曲がった道は通らず、両手で大鎌を振り回し山頂目指し一直線に駆け上がるものだから荊(いばら)や棘(とげ)で満身創痍になりながら、あがってくるお姿は雄壮でした。(少し笑えました)失礼。

この先生となら辛抱できるかなと翌日家族(配偶者と子供二人)と家財道具を友人に運転を頼み(私が車の免許を取ったのは40才過ぎでした)軽トラックで借りたばかりの家(ご不幸があった家だということで無料でした)へ引っ越ししました。

ここで、自然栽培とは?をお話ししておきましょう。厳密な定義はありません、従来は自然農法栽培という使われ方が普通でした。しかし、ある宗教団体が商標登録をしたので、法的には自由に使えません。自然農法といっても多種多様用いる人によって定義が違います。動物の糞を使用する、しない、あるいは使用しても鶏の糞だけであるとか、また植物性の堆肥すら一切使用しないというものもあります。学校の講義ではないので詳細は省きます。私が使用する自然栽培とはケミカルなものを使用しないで栽培する農法全てが該当します。ということで話を進めたいと思います。

有機栽培(自然栽培)で自給自足を目指すの巻
大家さんから借りていた畑を耕し、密柑山の下草を刈り、原田先生の自然栽培用の水田や畑作業の応援もし、貧しいながらも家族水入らずで楽しく暮らしていました。現金は多少持ち込んでいました、ときどき大丸デパートで展示即売(といっても自然栽培で作った野菜ではありません、雨の日に内職で作っていた野菜の木彫作品です)をしたりして収入を得ていました。

生まれが農家ではなく全て自己流の自然栽培、本物のお百姓さんから見ればママゴトのような暮らしだったのでしょうね、見るに見かねて手伝ってくれたりもありました。まあ、都会から来た珍しい人種っていう感じでしょうね、私達家族は。

ところがある日、意外なことを見たのです、山頂のお百姓さんご夫婦が密柑山の消毒をした日には必ず麓からタクシーが上って来るのです、農薬の噴霧作業が終わったら二人は揃ってタクシーに乗り込み出かけるのです、そうなるとしばらく山頂の自宅へは二人とも戻ってきませんでした。

お百姓さんは知っているのです、農薬がどんなに危険かを、彼らは農薬を使用する度にタクシーをチャーターし病院へ直行していたのでした、もちろんあとになってわかったことです。背に腹はかえられない、自分の寿命を縮めても作業が楽な農薬を使用するしか道は残されていない状況に追い込まれていたのです。農薬を使ったからといって老夫婦を責めることはできませんでした。

また、ある日のこと、有機農業研究会本部から一楽先生が若い女性数名をお供に原田先生を訪ねてこられたことがありました。一楽先生は日本では有機農業の第一人者です、山頂の原田先生の自宅に関係者が大勢(東京の女子大生や地元高知大学の女子学生や男子生徒たちが)集まり歓迎の宴を賑やかに催していましたが、その家の真下には例の老夫婦が静かに暮らしていたのです、私の借家は、老夫婦のご親戚の家で、そのまた真下でした。原田先生の畑で収穫した有機野菜(ほとんど自然栽培でした)を炒めて女子大生らに食べさせようとしました、ところが大人の人差し指大の毒々しい色の幼虫が数匹お皿の上に野菜と一緒に転がっています。女学生らが黄色い声を上げキャーキャーと叫んでいるのを先生はおもむろに箸でつかんで立ち上がり庭へ捨てるかとおもいきや、しばらく睨んでからご自分の口に放り込んだというわけです。そして曰く「自然栽培で作った野菜は美味い!」座は一瞬白けましたが、そのうち拍手で迎えられ、宴は華やいだ雰囲気で続いていました。

何故か悲しくなり、私は席を辞しました。当時の日本は有機農業運動全盛の時代、有機農業(自然栽培)であらずば農業にあらず、だったのです、でもそれはそれで仕方なかったのです。私達は有機農業運動が全て、世界の中心はここだとばかり、農薬を使うお百姓さんたちを小馬鹿にし続けました。今思うと顔から火が吹き出します。

だから、有機農業(自然栽培)はダメだとは思いません、老夫婦に有機農業を強要することはできなくても、若い私達が自分で始めればいいのです、と当時は考えておりました。2年後、縁有って鉢巻き山の山頂から香美郡物部村五王堂へ引っ越し、小林(現在は高知市内護国寺住職)さんや秋山(現在も五王堂在住)さん、また大家さんの奥村さんたちのお世話で幸せな半自給自足(車・電気・水道・電話・ガスなど一切無し)の日々を送っていました。が、河原の家(元豚小屋でした)は讃岐生まれの私には湿気が多すぎて木彫用の彫刻刀は錆びるし、子供たちの学校も買い物も(お店まで片道7キロ)大変なので、もう少し便利な、それでも讃岐高松のチベットと呼ばれていた葛谷に引っ越しました。

讃岐へ戻って5〜6年間、自給自足を目指し頑張りましたが、どうやら刀折れ矢つきた状態になったようです、で、食い物に困った熊が里に出没するように、気がついたら里の暮らしになっていましたm(_ _)m

しばらくは自然栽培農業から離れましたが、これも縁というものでしょうか?友人が無農薬野菜を売る八百屋をはじめることになり、スタッフになったというわけです。その八百屋の名前が「ちろりん村」なのです。自給自足の夢は破れました、が今度は販売する側になり無農薬の野菜を作る人の応援です。餅屋は餅屋と割り切り、気付くと20年が過ぎました。自給自足という言葉の意味もとらえ方が変わりました、日本人にとって自給自足とは何か?全員が無農薬や自然栽培の野菜を作ったり魚を捕ったりできるわけではありません、地産地消なるべく身近なところで作ったもの採れたものを食べる、国外から輸入しない、エネルギーも食料も水も自給が21世紀の人類に課せられた課題です。その課題をクリヤーすれば世界で起きている問題の多くは解決できるのではないかと今は考えています。

自然栽培(自給自足)農業とは21世紀に生き残る人類にとっては重要なキーワードです。ちろりん村は自給自足を目指し何処までも邁進します。

2007年1月15日から弊社新社屋のある敷地内に会員専用の無料ミニ菜園を開設しました、栽培方法は有機栽培など、大きな意味の自然栽培に限ります。

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